2008年11月3日月曜日

『リアル』8巻読了

AM1:00

コンビニに『リアル』8巻を買いに行った。
近所のセブンイレブンは品切れ、ファミマで購入。

物語がようやく起から承へ移ってきたように思った。
久信の物語が動き出したのが大きい。

父親のメールのシーンは微笑ましい。

それと朋美の物語も動き出した。

車いすバスケがメインで、このままバイプレーヤーで終わるんだろうかと感じていたので、ちと嬉しい。
『リアル』の陰の主人公は彼だと思う。
少なくとも彼の視点が無く、清治と久信等の話だけだったら、いい話にはなるだろうけど『リアル』にはならないと思う。
『リアル』の物語をリアルなものとして感じさせているのは、彼の存在だと言って良い。

8巻中で「100mを9秒で走っても鳥から見たら“飛べない世界”の話に過ぎない」という表現が出てきた。
物語とは別な解釈で使えば、健常者にとって車いすバスケの話は、自分たちから遠い世界、空を飛ぶ鳥のドキュメンタリーに過ぎず、どう空想を逞しゅうしてもそれをリアルに感じることは難しいと思う。

だから物語作りの現場では、ともすれば彼らをヒーローとして描く。
ヒーローの物語はわかりやすいからだ。

でも、その裏面にある苦しみや悲しみは「ヒーローの物語」という枠組みで囲まれ、記号化されてしまう。
本当に巧みな語り手とは、ヒーローを聞き手自身や、身近な存在として感じさせることが出来る語り手だ。

そういう意味で、この物語で野宮朋美の視点を用意した井上雄彦はやはりすばらしい語り手と言うべきだと思う。
かつ、ともすれば愛すべきバイプレーヤーとなりがちな存在の彼の物語をきちんと動かしてくれたのは嬉しい。

これからどうなるんだ!!と楽しみになった途端、読了。
次巻は…2009年秋。

フガッ!

ちなみに、他に「ヒーロー」をヒーローとして描かないでヒーローの物語を成立させている人として好きなのは曽田正人氏。
特に『め組の大吾』は、結果的には世界のヒーローになった青年の話なのに、弱点をきちんと弱点として描きながら成長を語ることと、畳みかけるようにスピード感で、ヒーロー的な印象を感じさせずに物語を成立させていたように思う。

2008年7月22日火曜日

共産党のマーケティング

今日、TVタックルを見ていたら共産党の話題が出た。
党員40万人。
政党助成金無しでやりくりする数少ない政党の一つで、自社ビルまで持っているが全て党員の寄付や党費で賄っている。

これは、つまり多くの顧客によって経営が成立している施設と一緒だ。

では彼らはなにを持って顧客を獲得しつなぎとめているんだろうか。

1つには赤旗の存在があろう。
公的に販売されている政党の広報媒体であれだけ強いものは、公明党の聖教新聞ぐらいだ。しかも後者は本来宗派の媒体であって政治専門の媒体ではない。

もう一つには「理想」の存在があるだろう。
これは公明党も一緒だが、他の政党はその時その時の状況で「理想」を口にすることはあるが、継続的かつわかりやすい「理想」を何らかの形で提示できているのは共産党と公明党だけではないだろうか。
共産党が掲げる理想は「共産主義が本来目指した理想世界の実現」であり、それは赤旗にも、ポスターや広報誌にも、議員の言動にも色々な形で主張されている。

前者は施設が顧客に送るメッセージ媒体であり、例えばメルマガやDM、ニュースレター。
後者は施設が顧客を満足させるために用意する物語=こだわり。

ビデオの冒頭大竹まこと氏が共産党党本部を「資本主義の象徴」と表現していたが、これは言いえて妙だ。
共産党の今があるのは、マルクス共産主義の力ではなく、それを日本の風土に合わせて噛み砕き、誤解を招きやすいからこそその表現に心を砕き、見直しし、常に顧客の立場で主張し、それを党員や支持者にフィードバックし、・・・というマーケティング戦略の結果であると言えるだろう。

これは共産主義という極めて売りにくい商品を売るためであったと思える。
例えばちょっとしたおまけ(1票いくらのお礼金)ではどうしようも無かったからこそ、マーケティング戦略が高度に発達したのではないだろうか。
出演していた民主党や自民党の議員は「いやーうちは自社ビルじゃないし(笑)」、「うちも本部はボロボロで...。こんなんが政権与党やっちゃだめだよね。(笑)」と卑下しつつ馬鹿にしているような発言をしていたが、創業400年近い経営が傾いた老舗の経営者が、楽天で地域No.1に輝いた隣の小さい旅館に同じようなことを言っていたのを思い出す。

あ、ところで。
誤解が無いよう、私は政治的にはニュートラルです。

2008年3月23日日曜日

ライヴ文学館 小説を聴く『死神の精度』

『死神の精度』(伊坂幸太郎:著 文春文庫)を題材にしたリーディング公演が、仙台市の市民活動サポートセンターで開催された。
主催は仙台市市民文化事業団。
仙台市文学館の外部公演という位置付け。

出演者はDateFMの石垣のり子さんと樋渡宏嗣さん。
樋渡さんはsendai座や劇都仙台2007『ミチユキ→キサラギ』などに出演した、実力派の役者さん。
石垣さんはDateFMで長く「e-Planets」に出演し、今は平日の13:30から16:25の「J-SIDE STATION」に出演しているパーソナリティさん。

二人のリーディングは、安定性が大変高く安心して楽しめるものだった。
役、読み手を行ったりきたりしつつ、物語を紡ぐ。

おもしれえ。

特に、三人称と一人称が混在してシンクロするシーンは面白い!!
リーディングはまだまだ奥があるなと思った。

石垣さんは老女から暗い若い女性まで行ったり来たりし、その隙間に幼女のような表情が挟まる。
パーソナリティとして安定感のある人だと思っていたが、演者(役者)としてもとても魅力的な人だと思った。
樋渡さんと組み合わせると、特にナレーション(読み手)をしている時は若干弱い気がしてしまった。(ちょっと不公平とも思うが…)
樋渡さんは、イイ。
響く太い声は届く。
文章で語られているほど冷たくないと感じたのは人柄だ。
(もっと機械的の方がゾクゾク来るかも。)

ともあれ、二人の(特に石垣さんは)また舞台に立っている姿を観たいと感じた。
それ以上に、舞台に立ちたいと思った。
舞台に立ちたいと思った…のは悔しいからだ。

悔しがっても仕様が無いのだが。

2008年3月22日土曜日

変わるもの変わらぬもの

晴れ 春の陽気。

所用で広瀬通に来た。
株主優待券があったので、スタバに行こうとしたら、その途中で、仙台の立食い界では老舗のK…というそば屋があった。

時間は昼時。

久しぶりに鰹出汁が効いたかけそばが食いたくなり、暖簾をくぐった。


その期待は敢え無く裏切られた。

入口に券売機。(すでにK…ではない!)
厨房にはいかにもなユニフォームを着たおばさん。
特徴的だった子供の頭程の大きさの布に包まれた鰹節の浮いた巨大な寸胴も、常にアツアツに沸騰していた麺茹で用の鍋も姿を消し、効率重視のユニット式そば茹で機が我が物顔で場所を占める。

できて来た物は、カップのそばの方が美味いような代物。
出汁は効いておらず、味気無く、そばは固くてボロボロ。

このそばにK…の名を継がせたのかと思うと腹が立ってならない。


K…は立食い界の老舗だったからこそ、「所詮立食い」と多寡を括ってしまったのだろう。
自分達のアドバンテージが圧倒的な味の差にあると分からず、効率重視の戦略を取ってしまった。
今はいい。
だが来年は?


K…には美味い立食いの原点に立ち返って欲しいと、願わずにいられない。
.

2008年3月11日火曜日

「無料より優れたもの」(日本語訳)を読んだ

無料より優れたもの

Kevin Kelly による "Better Than Free" の日本語訳。
訳者は堺屋七左衛門氏。
多数の競合施設によって数的にも内容的にも飽和状態にある宿泊施設業界においても、これは言える事だと思いつつ読んだ。

宿泊施設において、施設やサービス、プランなどは、いずれもコピーを繰り返されている。
デジタルではないから完全なコピーにはなりえないが、インターネット上で情報を集める段階で、つまり情報化された段階では、オリジナルの宿もコピーの宿も、同じ基準で評価されているのが現状だ。
他に無いサービスを始めても、好評を博せば数ヶ月から数年でコピーされる。

では、オリジナルのアイディアを生み出す作業、それに向けた努力は無駄なのか?
無駄にしないためにはどうしたらよいのか?

このテキストはその答えへの参考になりうる資料だと思う。

ちなみにこの文章を知ったのはYAMDAS現更新履歴ケヴィン・ケリーの"Better Than Free"の日本語訳が公開されている にて。

2008年3月8日土曜日

フリントロックからボルトアクションまでの歴史

銃器の歴史の中で“近代への変化”というべき時代がこの辺りだと思うのだが、長い間この辺の流れが謎だった。

詳しい年は省略。
動きが出てきたのは1850~1870年ごろ。アメリカの南北戦争が銃器の実験場になった。

1822年アメリカのジョシュア・ショウがパーカッションロック式を発明。以後、フリントロック式からより信頼性が高いパーカッションロック式に移行が進んでいくが、パーカッションロック式の進化は、雷管の進化と関連している。

最初の頃には子供のおもちゃや運動会のスターターで使うような、紙テープで火薬をはさんだものを雷管代わりにした銃が作られたりもしたが信頼性はきわめて低かった。

後、金属製の容器に雷酸水銀を詰めた雷管が使われるようになり、パーカッションロック式が発展した。

パーカッションのつけ場所として、はじめは伝統的な流れで銃の横側に付けられたが、後真後ろに付けられるようになった。やがて、雷管を仕込んだ薬莢が使われるようになり、その雷管をピンで突き破る形が取られるようになり、それがボルトアクションに進化していく。

初期の元込め銃は、銃の後ろ部分を跳ね上げて薬莢を込める形だった。
今でも散弾銃などでは見受けられるシステムである。
劇的に変えたのがモーゼル社の発明したボルトアクション。(ちなみにモーゼルはこれに似た機構を持つピストルも作っている。)
これがその後、自動小銃が登場するまで小銃のスタンダードとなる。

薬莢について

初めは一回分の火薬と弾を一つにまとめた容器が薬莢代わりとして使われていた。

これをコンパクトにした紙製薬莢が使われるようになった。

初期の元込め銃でも紙製薬莢が使われたが、しけり易かった為、後真ちゅう製の薬莢に移行した。

ライフルは1600年代にはすでにその有効性が語られたが、作業の手間とコスト、装填の時間的ロス、メンテナンス性などの問題から本格的に使われるまで2世紀近くかかった。

その過程では様々な実験により「ライフリングを彫らない方が良く当たる」ことを実証するための実験が行われたりもした。

(ある聖職者が件の実証のため、ライフリングを彫らない方に銅の弾を、彫った方に銀の弾を込めて射撃実験をした。 10発撃って、彫らない方は9発当たったが、彫った方は1発しか当たらなかったとして、ライフリングは役に立たないと主張したそうだ。が、これは銀が柔らかいための結果だった。)

2008年3月6日木曜日

『L change the WorLd』

晴れ 風は冷たい。

『L change the WorLd』※公式サイトはめちゃくちゃ重いので回線が細い方は注意!!

movix仙台で見た。
たまたまメンズデーで千円だった。

『DEATH NOTE デスノート』の外伝的な作品。
デスノートにLが自分の名前を記してから息を引き取るまでの23日間の物語。

まだ、上映中なので詳細は避けるが、面白かった。

『DEATH NOTE』のような頭脳戦を期待すると肩透かしを食うが、Lというキャラクターが好きな人なら、絶対楽しめるロードムービーだと思う。
随所に頬をポッと赤らめてしまうような青いセリフが飛び交うシーンがあるのはご愛嬌。

ところで、Lは究極の理想のオタクだと思う。
『DEATH NOTE』のテーマは「オタクが世界を救う」ということだったのかも。

オタクと呼ばれる人間を社会の不適合者と見る人は今もいるが、そういう人々が唸るほどの知能と行動力を持ち、いくら食っても太らない理想の肉体と、周囲の奇異を見る目に屈しない強靭な精神力を兼ね備えたその存在は、ある種の偏りを持つ人間にとって、「そうあれかし」と願わずに(…願わないまでも、ちょっと夢想せずに)いられない姿だろう。

そんな人間に本当に必要なものは何か?

オタクが搾取される存在でなく、世界を変える、

否、

世界を救う存在になるには?

その答えが見え隠れする映画だった。

2008年2月17日日曜日

神は時と共に変わる

晴れ。夕方から小雪。風は一日強し。気温低し。

ニコニコ動画を見ていて、最近「神MAD」という名前を付けてUPされているものの多くが、ただのミュージックビデオにしか見えないのだが、これはなんでなのだろうか。
神MADと言う言葉から私が連想するものと、神MADの名を付けてこれらをUPする人の間には感覚のずれがある。
コメントなんかを見ると、あながち私の感じ方も間違ってはいない様なのだが、しかし一方で、UPしている人間から見ればこれが神でもあるのだろう。
年代によるものなのか?
「神」の基準は時と共に、人と共に変わるものではあるわけだが、その過渡期において、こういった現象が起きるものなのかもしれない。
多くの同宗内での抗争は、こういった「神」なるものの解釈のずれからはじまる。
つまんないと思えば見ないだけで済む世界は、そういう意味では平和なものだ。

昔一目見て神MADだと思ったのは「お祭りジャイアントロボ」だ。
…ああ、これもミュージックビデオって言えば言えなくもないな。
でも、最近の神MADとは違う。
何が違うのか。
そこには「異質なものを組み合わせることで生まれる新しい何か」があるように思う。
最近の神MADと称するものにはそれが感じられないのだ。
きれいにまとまっているか、ないしただ合わせただけ。工夫のかけらもないか。
むしろ「神MAD」などと書かれていないものの方が良いものが多い。

最近嵌まった奴。
「【MAD集】いろんなアニメでホットペッパー」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2093510
「デスノートがホットペッパーにのっとられたようです」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1837152

2008年1月13日日曜日

『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』馬場康夫

朝、はらはらと舞う雪。昼に小雨。夜には晴れたが急速に気温が下がり、水溜りに氷。

◆『バブルへGO!!?タイムマシンはドラム式?』
監督:馬場康夫
土曜プレミアムで観る。

「バブルは、崩壊して初めてバブルとわかる」 - 2007年3月、800兆円の借金を抱え破綻の危機に瀕した日本経済。
財務官僚の下川路功は諸悪の根元を、1990年に大蔵省から通達された総量規制の行政指導をきっかけとするバブル崩壊にあると考え、タイムマシンで歴史を遡りバブル崩壊を阻止しようと計画する。
彼は偶然から洗濯機型タイムマシンを発明した昔の恋人・田中真理子を1990年3月の東京に送り込むがほどなくして彼女は消息を絶った。死亡として処理された真理子の葬儀の席で、下川路は彼女の娘・真弓と出会う。
事実を知った真弓は母を捜すため1990年の東京にタイムトラベルするが、そこには2007年の感覚からすると想像を絶するようなバブル文化に浮かれる人々がいた…。
果たして真弓は17年前の下川路と協力してバブル崩壊を阻止し、母と再会することができるのだろうか?

Wikipediaより

観ながら、バブルの頃=20代入ってすぐの頃を色々と思い出した。

正直、バブルの恩恵は全くと言って良いほど享受していない。その当時に演劇に嵌り、どんどん社会から外れていったためもあるし、またそうでなくても、性格的にあんな生活には縁が無かったと思う。
こと私個人の生活のレベルと言う点でだけ言えば、あの当時より、むしろ良くなっていると思う。

もし、今の記憶と能力を持ったままあの時代に戻れたら、何をするだろう?

もし可能なら、今度は無理してでもパソコンを手に入れ、勉強して、インターネットやパソコン関係の会社を立ち上げたいと思う。
まあ無理なのですが。

タイムマシンものから切っても切り離せないのがタイムパラドックス。
この映画では、その辺を楽観的かつあっさり目に終わらせている。
ハリウッド映画的というか、ハッピーエンドなら全て良しというか。
そういうノリで作られている映画だし、その辺を突き詰めてしまうと付いていけない人も出てくるだろうから、そういう意味では娯楽映画としてのバランスを崩さずに作られた良い映画だったと言えるだろう。

タイムパラドックスには二つの見方がある。
一つは、時間軸は1本だけとする考え方。
もう一つは、時間軸は無数に分岐するとする考え方。
どちらの立場を取るかによって物語の展開は大きく変わる。

前者の立場は、つまり「過去と未来は一つである」という考え方でもある。
過去をいじれば戻った先=未来は大きく変わり、未来に属する自分の存在もその瞬間に変わってしまう。過去で自分が生まれる前に自分の母を殺せば自分も消えてなくなる。…というわけだ。

後者の立場を採るなら、過去をいじればその時間軸の未来は変わるが、それはあくまでその時間軸だけの話で自分が属した時間軸は変わらないので、例えば自分の母を殺しても、殺した自分自身は消えず、その時間軸上の未来に生まれたはずの自分の存在の可能性が消えるだけだ。
タイムスリップとはパラレルワールドへのスリップと言うわけである。

ある人間は一つの時間軸上でしか生きられないのだから、どっちだって結局同じとも言える。
だが、どちらかと言えば前者の方が存在の理由、すなわちレゾン・デートルを突きつけられると言う点で、物語性があるため、前者をベースにしたタイムトラベルものが多いように思う。

この映画でも前者的な立場でその辺の処理がなされていたが、最後に薬師丸ひろ子が見せるなんともいえない複雑な笑みは、むしろ後者的な見方から「別な世界に放り出された人間の当惑」を表現していたのではないかとも思うのだがどうだろう。

いや、考えすぎか。

ともあれ、私には『ALWAYS 三丁目の夕日』より、実感があった分面白かった気がする。

2008年1月12日土曜日

『チャーリーとチョコレート工場』ティム・バートン

朝から夜まで曇り。時々雨。気温低し。

◆『チャーリーとチョコレート工場』
監督 ティム・バートン
金曜ロードショーで観る。

前々から気になっていたがついに観れた。

息子壱は学校等々で3回観たそうだ。今の学校は良いなあ。

ティム・バートンの映像センスは相変わらず素敵だ。
日本語吹き替えの声はちょっとなんだけど、最後まで面白く観る事が出来た。

ウィリー・ウォンカ製のお菓子は世界中で大人気。しかしその工場の中は一切謎に包まれている。
ある日ウォンカは「生産するチョコレートの中に5枚だけ金色のチケットを同封し、それを引き当てた子供は家族を一人同伴で工場を見学する権利が与えられ、さらにそのうちの一人にはすばらしい副賞がつく」という告知を出した。
世界中がチケット争奪で大騒ぎとなる中、運良く引き当てたのは、食いしん坊の肥満少年オーガスタス、お金持ちでわがままな少女ベルーカ、いつもガムを噛んで勝つことにこだわる少女バイオレット、テレビ好きで反抗的な少年マイク、そして家は貧しいが家族思いの心優しい少年チャーリー。
彼らはウォンカの招待のもと、工場の中で夢のような不思議な光景を体験していく。
ところがその途中で、まるであらかじめ仕組んであったかのようなさまざまなハプニングが起きて、子供たちは一人、また一人と消えていく…果たして、最後まで工場を見て回れる子供はいるのか。
ウォンカの「副賞」とは、そして彼の過去とは?

Wikipediaより

子供たち、大人達ともキャラが立っていて面白い。
また、随所に出てくる小人親父が良い味出している。

途中で出てくるエレベーターは、時々夢で見る。
私の場合は、巨大なビルなんかでエレベーターに乗るといつの間にかあんな感じであっち行ったりこっち行ったり、全くコントロールが効かない状態で彷徨ったり自由落下したりして、恐怖で目が覚める…という、悪夢と言って良い場合が多い。
そんなこともあって、夢と妄想と幻想がごっちゃ混ぜになった感じが共感できて面白かった。

ティム・バートンとジョニー・デップと言えば『シザーハンズ』もそうだが、なんとも切ない悲しい優しい心を持つ変人と、変質的な成功者たちの組み合わせが生み出す独特の「きれいは汚い汚いはきれい」な世界観は健在だった。
『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』も観たいと思う。できれば映画館で。

2008年1月7日月曜日

『カタリベ』石川雅之 リイド社

晴れ 気温はやや低めだが日差しもあり暖かめ 穏やかな日

昨晩、家族で外食。ついでに数冊本を買う。

新刊
・『ブラッドハーレーの馬車』 沙村広明 大田出版

以下は古本
・『カタリベ』石川雅之 リイド社
・『人斬り龍馬』 同上

◆『カタリベ』石川雅之 リイド社

『カタリベ』は初めて触れた石川作品で、雑誌の打ち切りで終了したと言う曰くつきだったこともあり、もう一度読みたいが諦めていたのだが、最近リイド社から出版されたと聞いて、是非読みたいなぁと思っていただけに、手に入ったのは嬉しい。
他の作品についても後に感想を書きたいと思うが、まずはここから。

明朝の中国大陸統一によって元末の動乱が終息して、数十年。
時は、新たなる血を海に求めようとしていた…。

日本・中国のうねる時代の中を生きる主人公<カタリベ>と海に生きる者たちの壮絶な生き様を描いた海洋冒険活劇!!

Wikipediaより

ちょうど時期的に、EVAやらもののけ姫やらにやたらはまった時期なのでその当時はすんなり読めたのだが、改めて読んでみると、なんとも凄まじいオープニングだ。
正直、主人公の少年を旅に追いやるために、ここまで不幸の連鎖を一身に背負わせるのはやり過ぎな気もする。
悲惨さの面でEVAも目ではない。もののけ姫もカワイイもんだ。
なんせ、自分の行動によって、死ななくて良い自分の仲間が80人惨殺されるのだから。

一人の少年には過酷過ぎる状況の奥底で、ハバン神と呼ばれる、神とも妖怪ともつかぬ存在、いわゆるデウスエクスマキーナと、ある意味「呪い」とも言えるを約束を交わす。

「半年生きる毎に、死んでいった仲間の一人を生き返らせよう。」

つまり40年生き延びれば死んでいった仲間全員が生き返るのだ。
だが、バハン神はそのための手助けは一切しない。(遠巻きに色々やってはいるが)自分の力で生き延びなければならない。
ここまで、(実は出自もそうらしい)周りの都合によって翻弄され続けてきた少年がここで始めて、自ら生き延びて仲間を生き返らせることを決断する。

時同じく、同じバハン神に取り付かれたマエカワと出会い、ついて行くことに。
彼はそこまで「御曹司」とだけ呼ばれてきたが、マエカワに名前を付けてくれと頼み、マエカワは「カタリベ」と言う名を彼に付ける。

「カタリベ」って言うのは良いですね。
当事者でありながら第三者。
その時代を生きながら、その言葉は時を越える者。

彼は、マエカワと仲間と共に戦乱の時代に自分たちの道を歩いていく…という所で打ち切り。
第一部完(とはなってなかったが)の類としては、納得いく終わり方の方だと思う。
読み終えて、これは「冒険活劇」であると共に典型的な「昔話」だなぁと思った。

「典型的」と感じたのは、キャラクタの多くがまだ表層的・類型的な存在で、深く掘り下げられない段階で終わってしまったことが原因の一つだと思う。
と、同時に、作者がきっちりと昔話的な物語構造を構築した上で話を書き始めた(と私が勝手に思っているのだが)ことが、出ているのかもしれない。
壮大な物語になる可能性があるだけに、きちんとした物語構造を用意することは絶対必要なことではある。不明な部分がないというのはすごいことだ。

だが、これは(なにもやっていない無責任な一読者の)わがままでしかないのだが、もっと余計な部分があっても良かったのではないか?という気もする。
破綻と言うか…。(…わがまますぎだ。)

(この作品を読んだ当時、私も南北朝の東北を舞台にした芝居を書こうと考え書きかけたが、人物を多くし過ぎ、途中で破綻して未完のままお蔵入りにしてしまった。
余りにステレオタイプになってしまったため破綻させようとして失敗したのだ。私の場合は単なる実力不足だ。)

続編を読みたい気もする。
が、書かなくても良い気もする。
作家的にはどうなんだろう。

書かなくても…と思うのは、たぶん、別物になってしまうんではないかと思うのだ。
例えば人物描写という点では「もやしもん」の方が優れていると思う。
ではあの物語で「もやしもん」なみの描写が出来るだろうか?
永野護のFSS並みの時間をかけるつもりなら別だが…時間をかければかけるほど、あの作品のよさの一部が無くなって行くような気がする。

時間を掛ければこそ伝わることがある。
時間が無いからこそ伝わることもある。
あの作品で伝えるべきことは、「勢い」だと、私は思う。