えーっと、本当は綴りがなんか独特のはず。
すみませんが、まあ、そおいうことで。
親友のNINさんにもらったYMOのMOVE集を見ながら書いてます。
いいのかそれで。
いいのだろう。
ええと、
芝居を見ながら、カフカの「城」を芝居にしたいものだとか重いつつ見ていました。
前半と後半が違い過ぎるとは前評判で聴いていました。
その原因は何なのか?
見終わって思うのは、役者の意識が、芝居の内容ではなく芝居の成立に向けられている点です。
芝居を構成しようとする意識より役者であろうとする意識が強すぎる。
手前の日常なんか見たくねえんだよ。
わかる?
と言ってやりたくなるようなズレが、一番の問題だと思います。
始まって前半、軽快なテンポで進みます。
いやいや、状況はあくまで異常なんだぜ?軽快で進むのか?
納得いかないのだが、なんだか知らない安心感。
なんかね、ステレオタイプなんですよ。
ステレオタイプで収まる。
すみません、そんな芝居いらないですよ。
後半、少しずつ二人の心が表面から剥がれていく。
それが目的だったのだろうが、残念なことに剥がれていく心の様子が予想できるのだ。
いいのか、それで。
いいのだ、それで。
それで良いじゃないか。
良いか馬鹿野郎。良いわけないだろう。
わかっていても。どうなるかわかっていても涙が出るから良いのじゃないか。
理想論だが。
それが無くて、芝居の存在意義などあるのか?無いよ?
映像技術が成長したら何の必要がある?
無いよ?
無いに決まってるじゃないの。
芝居が芸術気取りでいられる最大にして唯一のポイントは、
“そこ”に人が生きてる。
それ以外は、なにもない。
ない。
じゃあ、お前の人生は?
と言われれば、何も無いと答えるしかないのだが。
リアルじゃない。
それは最大にして唯一攻めるべき点だと思う。
今回の芝居は。