2004年7月30日金曜日

クーラー三昧と生きること死ぬこと

クーラーっす。夏はクーラーっす。
…などと、五年前なら口が割けても言わなかったのだが、去年は無用の長物だったクーラーが大活躍な今夏、"くーらー!!"と言わずにいられないのは脆弱さ故か。
クーラーに涼みながら、最近ようやく暇が少しできたので、一息ついてこれからのことを考えたりしている。
ここ数年、自分のしたいことを手近なところで済ます傾向が強くなって来た。
物理的に時間が無いのは確かだけど、それ以上に「やっても無駄だ」という思いが燻っている。
なぜ無駄なのか。どうせいつか死ぬからだ。
これは、小さい頃からあった想いだが、最近はにっちもさっちもいかない位強くなる時がある。
これに憑かれると、もうただその日を順当に送ることしか考えられなくなる。
そんなことを人に話すと「ああ、あなたはやる気が無い人なのね。」とさげすまれる、気がする。
何故、「やる気が無い」と言うのがさげすみの対象になるのか。
何故、やることがない、やりたいことが見付からないということが罪に当たるのか。
やる気があり、利益や利潤、自分の追い求めるものを持っていること、その欲望の力。
欲望とはそのまま、欲し望む力であり、知恵の実を望むことが失楽園の原因、原罪であったように、欲する力が無いなら人では無いのだ。
欲する力が無いものは、それだけ死に近い存在であり遠ざけられなければならない。
特に、その力を人の根元的なエネルギーと考える資本主義経済の社会においては、だ。
古い言葉では「モーレツ」に「24時間戦えますか」だ。
最近なら「人生の勝ち組になれ」と言うべきか。
そして、そこから落ちたものはただ搾取されるしかない。
わたしの陥る状態は、搾取する人にとって実に都合が良い状態なのだ。搾取できないなら搾取される側になれ。差別できないなら、差別される側になれ。
いつもそこで、堂々巡りになる。
人を平気でだまして搾取する側になれる程、強くない。でも、唯々諾々と搾取される側になるのも耐えられない。
そこで、第三の道と称してモラトリアムを決め込む。しかし、そこにももちろん救いは無い。

どう生きたって、必ず死ぬ。いつか死ぬ。
死ぬから、何をしても無駄なのならば、生きるということの意味は無い。
意味というもの自体、生きている間だけのもので、だからどんなものの意味も、常に変動し、流転する。
生きると言うことでしか、意味は存在し得ない。
ここでの"意味"は色即是空の"色"にあたる。
色即是空は現実であって、そこに意味は無い。感情も人生も無い。
ただ一つ言えるのは、空において色は無く、色において空は無い。
搾取されるもされないも、生きているからこそ有り得る状態だ。
生きがいがあっても無くても人は生き、死ぬ。
今のままで、その時、わたしは後悔せずに逝けるのだろうか。
「どうせ死ぬから。」と言う想いは、死に近いようで実は死から遠い言葉だ。死への闇雲な恐怖が背景にある。闇雲に恐いから、死を明確にイメージ化できない。死が恐いから、無意識に死後や来世を期待し、今で無ければできないことから逃避する。
そこに信仰の原点がある。だから、宗教は自己啓発と逃避の色が常に強い。
数年前まで、私にとって演劇は明らかに宗教だった。
それも、破滅、終末を前提にした宗教だ。
以前いた劇団では、入って数週間で「解散するかも」と聞かされ、二年後には本当に解散した。(その後、再結成されたのだが全然違う集団になっていた。)だから、息が切れた時、劇団を辞める時は死ぬ時だと、半ば本気で考えていた。
だが、集団自決する日は来なかった。
当り前だ。
芝居は、本来生きるためにあるのだから。
生きてる人のために、生きる日々のために、まさしく"色"として存在するものなのだ。
芝居をする、芝居を見るということは生きるためのものだが、逆は真では無い。
世界は芝居だけで構成されているわけじゃないからだ。
絶対必要なものでは無いが、しかし、あったほうが面白いもの。
芝居とはそういうものなのだ。
"色"は一色では無い。
劇団にいた当時、そして辞めてからも、そのことに気づくことがなかなかできなかった。
でも、この文を書いていて、なんだかわかった気がする。

図書館から借りた本:
『世のため、人のため、そしてもちろん自分のため』村上龍・藤木りえ/NHK出版
『の境界』小熊英二/新曜社

いつになったら読了できるだろう…。