2004年12月28日火曜日

一切皆苦

仏教の言葉に一切皆苦と言う言葉がある。
この世は全て苦しみであるという言葉だが、ここで言う苦しみとか、感傷的、感情的な意味での苦しみと考えると本質を誤るらしい。
ここで言う苦しみとは、医学的な意味での刺激を表すそうです。
私たちは世界を、感覚器が受容する刺激を通してのみ認識することができる。
刺激には本来、良い刺激も悪い刺激も無い。
これに意味付けしてるのは意識、無意識である。
意識の仕方が変われば、刺激はその意味を変える。
それがそう巧くは行かない。
意識を変える物も、意識を通してしか取り込むことが出来ない。意識はあらゆる刺激を知覚しているわけではなく、かなりの刺激をなかったことにしており、変化につながる程の刺激は無視されてしまうことが多いのだ。
この意識にゴロつく塊のような物を煩悩と呼んで良いでしょう。
ここから救われる、つまり解脱するにはどうしたら良いのか?
仏教では修行によって悟りを開くことと全てをご本尊に任せて帰依することの二つの道を示してますね。
悟りの境地とは、涅槃の境地を知識としてではなく、実感を伴う感覚として意識界ないし無意識界で知覚した状態と言えるでしょう。
帰依のシステムは、より広大な安定した状態をご本尊を媒介にして、それと自分が同一化するイメージによって涅槃の境地を知覚するというシステムと言えるでしょう。
いずれにせよ、涅槃の状態と言う、通常とは掛け離れた状態を知覚するための方法論であると言えます。
では、涅槃の状態とはなにか。
涅槃はニルバーナという梵語から来たと言います。
ニルバーナとはバーナ(炎)の非定型(Nil)で、煩悩の炎が消えた状態を指します。
絶対安心、絶対安定、永遠不変、一切の刺激が無い状態。
一切皆苦の状態とは正反対の状態です。
この状態の一番わかりやすいものは、死んだ状態。
これを仮想体験することが仏教における究極の宗教体験と言えるでしょう。
仏教は葬式のためのものとしてのみ考えられてるきらいがありますが、本来は死を仮想体験することで生をより充実したものにするためのものです。

現代社会においては、いかに生きるかだけが語られてます。
しかし、刺激に鈍った私達の感覚器を解き放つ、死の仮想体験法は怪しげな呪術と一緒くたにされてます。
だから、「癒し」なんて言葉が流行るわけですが、それで追い付かない場合は死ぬしかないと考えてしまい、周囲もそれを止める手立てが無いと考えてしまいがちです。
では、死は本当に究極の癒しと言えるのでしょうか。
死の状態では、意識がありません。無意識も然り。
死を感覚する感覚器は働きを止め徐々に不敗していくばかりです。
癒しとは宗教と同じ生きるための方法であって、死は死でしかなく、生が絶対否定されてる状態なのですから、死には癒しの要素は一切ありません。
死に感情も感傷もありません。
死は現象でしかありません。

2004年12月22日水曜日

3Q CUT行ってきました

かつて床屋さんは、髪を切るだけの仕事ではありませんでした。
ヨーロッパでは外科医の仕事もしていたため、洗って店先に乾かした仕事で使う包帯が、床屋さんの目印となり、今でも動脈と静脈と包帯を現す赤青白の回転灯にその伝統が残っています。
鬚や髪は人にとって生きてる証であり、生命力そのものとする信仰が洋の東西問わず存在します。巨人サムソンは鬚を切られて怪力を失いましたし、丑の刻詣りのわら人形に入れるのはなんといっても髪の毛です。戦地で戦死した人の遺髪を持ち帰るというのも、僧侶が剃髪して出家する、荒くれ者が鬚を生やすと言うのもこの信仰に由来します。
だから、これを扱う人々、床屋さんは、人の命を扱う特別な人々だったわけです。(その感覚があったから、外科医の仕事にも繋がっていたんですね。)

さて、
午前の時間を使って、近所の床屋さん「3Q CUT(サンキュー カット)」に行ってきました。
カット専門で1カット1000円、所要時間10分と言うのだから、時間の無い人間にぴったり!
場所は大和町の、かつて吉川晃司がザ・ベストテンで生中継で唄ったことで一部地域の一部世代に有名なパイナップルステーションというテナントビル。
ちなみに山頭火の向かい。
駐車場は空いてたのでラッキーと思ったが、店内は満員、待ってる人も十人近くいる。
「いらっしゃいませー。初めにカットカードをお買い求め下さい。」
見ると通常レジカウンターに当たる所にポツネンと小さなカード販売機。千円を入れるとシュッとプラスチックのカードが出てきた。
それを持って待合席へ。
待合席には数字がふられていて、早くきた順に詰めて座り、一番の人が呼ばれると一つずつ詰める仕組み。
待ちながら店内を見回す。
カットのための席が四席プラス子供席が二席。全部にスタッフが立っており、常にフル稼働。
カット専門と言うだけあって、洗髪、鬚剃り、パーマやカラーリング、マッサージのたぐいは一切無し。ただ、切るのみ。
各席も極めて機能的に作られていて、
洗髪が無いので細かい髪の毛が残らないようにするために掃除機が使われているのだが、道具棚に上手く隠されていて結構格好よく使われていたり、
切って床に散った髪の毛をチリトリ使わずに済むように、道具棚の下に小さなすき間があってその奥の空洞に掃き込めるようになっていたり、
細かい直しで、普通鬚剃りを使うようなところも、全てバリカンのそういうモードを使って処理し、鬚剃り関係の道具が要らないようにしてあったり。
良い悪いはさておき、とにかくカットのためだけに機能を限定集中させてありました。
そうこうしている内に私の番。
「ビデオのある席で良いですか?」と聞かれ「どこでもいいです」と応えると、案内されたのは子供用の席だった。
鏡の前に割と大きめのDVDプレーヤー。アニメとか見ながらカットできるらしい。鏡の周りにはキャラクター物のぬいぐるみ。おもちゃがあったり、車型のシートがあったり。
しかも、窓際の割と目立つ場所。
…まあ、いいや。(^^;
さすがにDVDを見させてっもらったり車のシートに座ったりする勇気はありませんでした。
カットはスムーズでそれなりな感じ。
心持ち雑な感じがしたのは「安い」という先入観があるためかも。
あまり余計な注文は(やってくれるかもしれないけど)できない雰囲気。
有り体にまとめてもらいました。
所要時間15分位。
待ち時間を入れて45分程。
待ち時間がネックなのが店側もわかっていると見えて、待合席に空いてる時間帯(お昼から二時三時と六時から閉店まで。それと雨の日。)を御利用下さいと貼り紙してありました。
まあ、待ち時間を入れても。普通の床屋さんで待ち時間入れて2時間位かかることもあるのを考えれば早いと言えるでしょう。
ただ、なんというか、
「チャップリンのモダン・タイムスに出てきそう。」な感じで、ゆったり感とか安らぎ感はありません。機能的で、安くて早くてそこそこの出来ですが、なんか物足りない感じがするのは、やっぱり今までの床屋さんのイメージがあるからでしょうか。
でも、ただ安いだけの店だと技術が低い(明らかに新人しか使ってない)所も多いですが、ここだとそれなりに安心してやってもらえそうな気がします。
一日に相当数こなしてるでしょうから。
お金も時間も無い時には、ありがたい所だと思います。

2004年12月15日水曜日

『カタルシス×カタルシス』と『神様が部屋を訪ねてきた』

先日、アラタにて『カタルシス×カタルシス』と『神様が部屋に尋ねてきた』を見た。
内容の説明はおく。

『カタルシス×カタルシス』は題名が示すごとく、男によってつながった女二人がその男ゆえの懊悩を、出会いと交流の中でぶつけ合い互いにカタルシス(浄化、帰依)へ導かれるという話、
なんだろうと思うのだが、
カタルシスが成立しないまま終わってしまった。
役者の問題は大きいだろう。
共に、それぞれの役が抱えているはずの色々を言葉としてしか捉えてない。
それでも前半の"あっさりした別役"みたいなシーンはまあなんとか見れるが、後半の激突するシーンが、完全に台詞上だけの心に響かないものになってしまっていた。
なにも全編重ったるくする必要はないが。

例えば、残された妻はアル中な訳だが、あれでは「胃が荒れてる」程度の人だ。アルコールに依存せずにいられない状態ではないし、依存してる状態でもない。アルコール依存という物自体を全く想像できてない。アルコール依存は身体的な疾患ではなく精神的なものだ。
それは、旦那の死を受け入れられないという状態についても言える。それが崩壊する時、なんであんなにあっさりしてるんだろう。はなっから、旦那の生存を信じてはいなかったようにしか見えない。
侵入してくる女も、なんであんなにあっさりしてるんだろう。
新聞の男が来た時の反応などに、なんで絶望の闇が溢れ出てこないのだろう。
信じたもの全てに裏切られ、全てを奪われ、死を選ぶというのは、ありがちなようでそうあることではないし、前提として人を信じ、自分の力で手に入れる力、希望の力を持つ人でなければ、絶望は成立しない。
前半の作りがあまりにもさらっとし過ぎてて、役者がそれをベースに役作りをしてしまったのだと思う。
二人の出会いも、男を媒介にしたとはいえ、どうしてあんなにあっさり受け入れるのだろうか。あんなにすぐに仲良くなるのだろうか。
強張り、孤立し、七転八倒する心の出会いがなければ、カタルシスは起こり得ない。
それを感じて、仕方なく言葉で無理矢理ケリをつけたように感じた。
後半のどろどろから逆算して作り直す必要があったと思う。

『神様が部屋に訪ねてくれた』は、前者に比べれば相当良かったとは思う。
でも、それは前者と比較してという意味で、一人芝居としてはもっともっと努力が欲しかった。
一人芝居は、一人でやる芝居。
これは、イコール全てのルールを一人で決め、一人で見せ、一人で裏切る芝居ということで、二人以上の芝居とは、全く別と言っていいほど違う表現行為だ。
特に技術的に言えば、見立てのルールを一人で自由に出来る点が大きい。
例えば、前半で神様とのエッチを匂わすシーン。
神様の体をパントマイムなどで表現するのは実は見立てであり、対人的な演技とは別なルールが必要になる。
神様を抱きしめる。きつく抱きしめる気持ちが勝って神様が入る隙間が腕の中に無かった。
神様と語らう。神様は色々言ってるはずだ。だが、女はそれを聞いてない。現実の会話では相手の言葉に重なるような言い方はよくあるし、聞いてない様で聞いてるという状況もよくある。が、一人芝居では相手の言葉は客が想像できるようにもっと隙間を開ける場所が必要だった。
女の台詞を繋げれば話はわかるのだが、もっとバラエティにとんだリズムが欲しかった。
後半は、体の見立てが良く目立つシーンが多かった。
それだけに、もっとあざといくらいのルール付けと裏切りが欲しかった。
例えば白線を歩く、ということと逃げるということ。
白線を歩くは「外れたら死」なのだが、その割にはひょいひょい小気味良く歩き、逃げるときはただ同じ方向に同じコースでぐるぐると逃げていた。
前者を見立てる場合、「外れない」ということイコール「外れられない」ということをもっと見せるべきだったし、後者を見立てる場合、コースを外れてランダムに逃げる方が
「それでも結局逃げられない」という感じがより鮮明になっただろう。
全体として、役者の体や心の惰性に任せがちな芝居になってしまった気がするが、これは演出不在の問題も大きいだろう。
不在…ではなかったのかもしれないが、もっと研ぎ澄ましていく必要はあってしかも役者的には割といっぱいだったと思うから、他者の目での刈り込みが必要だったろうとおもう。
役者体がいつものいそさんだったのは痛い。
がんばっていたとは思うけど。
話は、面白かったと思うけど。

えらそうなことばかり書いてしまった。
期待してた分もあるのですよ。

泣いていたお客さんもいたから、けしてこれが絶対的な評価とは言えないです。
でも、
…がんばってね。