妻が私が職場で書いているブログを評して「お父ちゃんじゃないみたい。」と言っていた。
書いていてもそう思う。
書いている時は、頭の中のキャラクタを変えて書いている。
ちょうど、台本を書いててそのシーンそのシーンでキャラクタを変えてるのに近い。
比較的ポジティブで地域や職場を愛し、その情報発信を楽しんでいる人。
現実にそういう人には会ったことがない。
どこのIT担当も疲れ切ってグチグチ言っている人が多い。
でも、ネット上を見ているとそういう感じの文章を書く人達を時々見かける。
アフィリエイターの方々やコンサルタントの方々だ。
そういう方達が各文章は、とてもポジティブで一点の曇もない青空の様な文章だが、どうにも食い足りずどこか怪しげで裏がありそうな文章の場合が多い。
(裏がありそうと感じるのは私が腹黒い人間だからだろうけど。)
意図的に、欠点やマイナスの部分を、少しでもプラスに転換しようと試行錯誤した結果が、どこか怪しげな印象につながるのだろう。
ポジティブさには裏にネガティブさが隠れており、光が強い程影も濃くなる…というのが現実的な感覚で、ネガティブになるはずの部分が明るいと「怪しい」と感じるのだ。
しかし、実際問題この「怪しい」と感じるポイントは一人一人で微妙に違う。
例えば、古い旅館を「鄙びた」と感じるか「古い」と感じるかは人それぞれ。
それも、「鄙びた」と感じる場合にもチェックポイントは人によって様々で、「木造なら“鄙びた”でモルタルは“古い”」と感じる人もいれば「タイル張りのお風呂は“鄙びた”だが大理石は“古い”」などなど。
“数寄もの”の世界なども、極めて感覚的なもの。解釈は人によって大きく変わる。
さらに言えば、同じオブジェでも見方を変えて面白い所を見つけるのが“数寄もの”の世界と言えるし。
つまり、100%誰もが「怪しい」と感じるものも、「怪しくない」と感じるものも存在しない。
「比較的怪しい」、「比較的怪しくない」ものがあるだけだ。
だとしたら、私が職場で書いているブログはどうなのだろうか。
なるほど、私じゃない人間が書いたような文章にはなっているが嘘を書いていない。
また、職場や周辺地の魅力を紹介するのが目的の商用ブログなんだから(私の徒然なるまま書き散らすブログじゃないんだから)その目的から考えて、職場や周囲の人々がマイナスと考えるものに光を当てておもしろさを見つけ、プラスと考えるものは益々その良さを表現する事が出来ていればOKで、それは比較的出来ていると思う。
文章がやや冗長なのは否めないが。
文章自体は嘘つきではない。
感覚的に嘘をついているため、時々自分でも気持ちが悪くなるが、飯を食うため、妻と子供を養うためだと考えて書いている。
と、自分では考えている。
自分が書きたい文章だけを書ける、それで食える人間になれたら本当は一番良いんだろうな。
そういう文章(書きたいと思ったものに命をかけた様な文章)でないと価値が無いなどと宣う昔の私みたいな人間から見たら、私の職場で書いてるブログは「嘘つき日記」なのだろうが、
畢竟、サービス業とは嘘つき業だ。
と心の中でつぶやいて、今日も仕事に勤しもうと思う。
2009年6月19日金曜日
2009年6月4日木曜日
『墨子』
すみこではない。
念のため。
図書館で借りた。いわゆる注釈本を読了。
『墨攻』(酒見賢一 著)とセットで読むのが吉。
また読みたいな。時間があったら。
墨子の考え方は、個人的には孔子の言葉よりしっくり来る。
しかし、いわゆる墨家集団のイデオロギー的な部分は嫌いだ。
誰のために戦い、誰のために死ぬのか。
少なくとも圧政者のためじゃないはずだ。
キリストその人と教会の関係のようなものを感じる。
集団が自己保存に傾くと、創始者は人ではなくシンボルとなり、生きた言葉はフィルタで濾されて力を失う。
大事なのは、崇め奉ることではなく、我が心と行いを彼の人のごとくにすることだ。
彼の人の考えるように考え、彼の人が行うように行う。
まあそれが難しいのだが
不肖の者には。
念のため。
図書館で借りた。いわゆる注釈本を読了。
『墨攻』(酒見賢一 著)とセットで読むのが吉。
また読みたいな。時間があったら。
墨子の考え方は、個人的には孔子の言葉よりしっくり来る。
しかし、いわゆる墨家集団のイデオロギー的な部分は嫌いだ。
誰のために戦い、誰のために死ぬのか。
少なくとも圧政者のためじゃないはずだ。
キリストその人と教会の関係のようなものを感じる。
集団が自己保存に傾くと、創始者は人ではなくシンボルとなり、生きた言葉はフィルタで濾されて力を失う。
大事なのは、崇め奉ることではなく、我が心と行いを彼の人のごとくにすることだ。
彼の人の考えるように考え、彼の人が行うように行う。
まあそれが難しいのだが
不肖の者には。
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