2008年1月13日日曜日

『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』馬場康夫

朝、はらはらと舞う雪。昼に小雨。夜には晴れたが急速に気温が下がり、水溜りに氷。

◆『バブルへGO!!?タイムマシンはドラム式?』
監督:馬場康夫
土曜プレミアムで観る。

「バブルは、崩壊して初めてバブルとわかる」 - 2007年3月、800兆円の借金を抱え破綻の危機に瀕した日本経済。
財務官僚の下川路功は諸悪の根元を、1990年に大蔵省から通達された総量規制の行政指導をきっかけとするバブル崩壊にあると考え、タイムマシンで歴史を遡りバブル崩壊を阻止しようと計画する。
彼は偶然から洗濯機型タイムマシンを発明した昔の恋人・田中真理子を1990年3月の東京に送り込むがほどなくして彼女は消息を絶った。死亡として処理された真理子の葬儀の席で、下川路は彼女の娘・真弓と出会う。
事実を知った真弓は母を捜すため1990年の東京にタイムトラベルするが、そこには2007年の感覚からすると想像を絶するようなバブル文化に浮かれる人々がいた…。
果たして真弓は17年前の下川路と協力してバブル崩壊を阻止し、母と再会することができるのだろうか?

Wikipediaより

観ながら、バブルの頃=20代入ってすぐの頃を色々と思い出した。

正直、バブルの恩恵は全くと言って良いほど享受していない。その当時に演劇に嵌り、どんどん社会から外れていったためもあるし、またそうでなくても、性格的にあんな生活には縁が無かったと思う。
こと私個人の生活のレベルと言う点でだけ言えば、あの当時より、むしろ良くなっていると思う。

もし、今の記憶と能力を持ったままあの時代に戻れたら、何をするだろう?

もし可能なら、今度は無理してでもパソコンを手に入れ、勉強して、インターネットやパソコン関係の会社を立ち上げたいと思う。
まあ無理なのですが。

タイムマシンものから切っても切り離せないのがタイムパラドックス。
この映画では、その辺を楽観的かつあっさり目に終わらせている。
ハリウッド映画的というか、ハッピーエンドなら全て良しというか。
そういうノリで作られている映画だし、その辺を突き詰めてしまうと付いていけない人も出てくるだろうから、そういう意味では娯楽映画としてのバランスを崩さずに作られた良い映画だったと言えるだろう。

タイムパラドックスには二つの見方がある。
一つは、時間軸は1本だけとする考え方。
もう一つは、時間軸は無数に分岐するとする考え方。
どちらの立場を取るかによって物語の展開は大きく変わる。

前者の立場は、つまり「過去と未来は一つである」という考え方でもある。
過去をいじれば戻った先=未来は大きく変わり、未来に属する自分の存在もその瞬間に変わってしまう。過去で自分が生まれる前に自分の母を殺せば自分も消えてなくなる。…というわけだ。

後者の立場を採るなら、過去をいじればその時間軸の未来は変わるが、それはあくまでその時間軸だけの話で自分が属した時間軸は変わらないので、例えば自分の母を殺しても、殺した自分自身は消えず、その時間軸上の未来に生まれたはずの自分の存在の可能性が消えるだけだ。
タイムスリップとはパラレルワールドへのスリップと言うわけである。

ある人間は一つの時間軸上でしか生きられないのだから、どっちだって結局同じとも言える。
だが、どちらかと言えば前者の方が存在の理由、すなわちレゾン・デートルを突きつけられると言う点で、物語性があるため、前者をベースにしたタイムトラベルものが多いように思う。

この映画でも前者的な立場でその辺の処理がなされていたが、最後に薬師丸ひろ子が見せるなんともいえない複雑な笑みは、むしろ後者的な見方から「別な世界に放り出された人間の当惑」を表現していたのではないかとも思うのだがどうだろう。

いや、考えすぎか。

ともあれ、私には『ALWAYS 三丁目の夕日』より、実感があった分面白かった気がする。

2008年1月12日土曜日

『チャーリーとチョコレート工場』ティム・バートン

朝から夜まで曇り。時々雨。気温低し。

◆『チャーリーとチョコレート工場』
監督 ティム・バートン
金曜ロードショーで観る。

前々から気になっていたがついに観れた。

息子壱は学校等々で3回観たそうだ。今の学校は良いなあ。

ティム・バートンの映像センスは相変わらず素敵だ。
日本語吹き替えの声はちょっとなんだけど、最後まで面白く観る事が出来た。

ウィリー・ウォンカ製のお菓子は世界中で大人気。しかしその工場の中は一切謎に包まれている。
ある日ウォンカは「生産するチョコレートの中に5枚だけ金色のチケットを同封し、それを引き当てた子供は家族を一人同伴で工場を見学する権利が与えられ、さらにそのうちの一人にはすばらしい副賞がつく」という告知を出した。
世界中がチケット争奪で大騒ぎとなる中、運良く引き当てたのは、食いしん坊の肥満少年オーガスタス、お金持ちでわがままな少女ベルーカ、いつもガムを噛んで勝つことにこだわる少女バイオレット、テレビ好きで反抗的な少年マイク、そして家は貧しいが家族思いの心優しい少年チャーリー。
彼らはウォンカの招待のもと、工場の中で夢のような不思議な光景を体験していく。
ところがその途中で、まるであらかじめ仕組んであったかのようなさまざまなハプニングが起きて、子供たちは一人、また一人と消えていく…果たして、最後まで工場を見て回れる子供はいるのか。
ウォンカの「副賞」とは、そして彼の過去とは?

Wikipediaより

子供たち、大人達ともキャラが立っていて面白い。
また、随所に出てくる小人親父が良い味出している。

途中で出てくるエレベーターは、時々夢で見る。
私の場合は、巨大なビルなんかでエレベーターに乗るといつの間にかあんな感じであっち行ったりこっち行ったり、全くコントロールが効かない状態で彷徨ったり自由落下したりして、恐怖で目が覚める…という、悪夢と言って良い場合が多い。
そんなこともあって、夢と妄想と幻想がごっちゃ混ぜになった感じが共感できて面白かった。

ティム・バートンとジョニー・デップと言えば『シザーハンズ』もそうだが、なんとも切ない悲しい優しい心を持つ変人と、変質的な成功者たちの組み合わせが生み出す独特の「きれいは汚い汚いはきれい」な世界観は健在だった。
『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』も観たいと思う。できれば映画館で。

2008年1月7日月曜日

『カタリベ』石川雅之 リイド社

晴れ 気温はやや低めだが日差しもあり暖かめ 穏やかな日

昨晩、家族で外食。ついでに数冊本を買う。

新刊
・『ブラッドハーレーの馬車』 沙村広明 大田出版

以下は古本
・『カタリベ』石川雅之 リイド社
・『人斬り龍馬』 同上

◆『カタリベ』石川雅之 リイド社

『カタリベ』は初めて触れた石川作品で、雑誌の打ち切りで終了したと言う曰くつきだったこともあり、もう一度読みたいが諦めていたのだが、最近リイド社から出版されたと聞いて、是非読みたいなぁと思っていただけに、手に入ったのは嬉しい。
他の作品についても後に感想を書きたいと思うが、まずはここから。

明朝の中国大陸統一によって元末の動乱が終息して、数十年。
時は、新たなる血を海に求めようとしていた…。

日本・中国のうねる時代の中を生きる主人公<カタリベ>と海に生きる者たちの壮絶な生き様を描いた海洋冒険活劇!!

Wikipediaより

ちょうど時期的に、EVAやらもののけ姫やらにやたらはまった時期なのでその当時はすんなり読めたのだが、改めて読んでみると、なんとも凄まじいオープニングだ。
正直、主人公の少年を旅に追いやるために、ここまで不幸の連鎖を一身に背負わせるのはやり過ぎな気もする。
悲惨さの面でEVAも目ではない。もののけ姫もカワイイもんだ。
なんせ、自分の行動によって、死ななくて良い自分の仲間が80人惨殺されるのだから。

一人の少年には過酷過ぎる状況の奥底で、ハバン神と呼ばれる、神とも妖怪ともつかぬ存在、いわゆるデウスエクスマキーナと、ある意味「呪い」とも言えるを約束を交わす。

「半年生きる毎に、死んでいった仲間の一人を生き返らせよう。」

つまり40年生き延びれば死んでいった仲間全員が生き返るのだ。
だが、バハン神はそのための手助けは一切しない。(遠巻きに色々やってはいるが)自分の力で生き延びなければならない。
ここまで、(実は出自もそうらしい)周りの都合によって翻弄され続けてきた少年がここで始めて、自ら生き延びて仲間を生き返らせることを決断する。

時同じく、同じバハン神に取り付かれたマエカワと出会い、ついて行くことに。
彼はそこまで「御曹司」とだけ呼ばれてきたが、マエカワに名前を付けてくれと頼み、マエカワは「カタリベ」と言う名を彼に付ける。

「カタリベ」って言うのは良いですね。
当事者でありながら第三者。
その時代を生きながら、その言葉は時を越える者。

彼は、マエカワと仲間と共に戦乱の時代に自分たちの道を歩いていく…という所で打ち切り。
第一部完(とはなってなかったが)の類としては、納得いく終わり方の方だと思う。
読み終えて、これは「冒険活劇」であると共に典型的な「昔話」だなぁと思った。

「典型的」と感じたのは、キャラクタの多くがまだ表層的・類型的な存在で、深く掘り下げられない段階で終わってしまったことが原因の一つだと思う。
と、同時に、作者がきっちりと昔話的な物語構造を構築した上で話を書き始めた(と私が勝手に思っているのだが)ことが、出ているのかもしれない。
壮大な物語になる可能性があるだけに、きちんとした物語構造を用意することは絶対必要なことではある。不明な部分がないというのはすごいことだ。

だが、これは(なにもやっていない無責任な一読者の)わがままでしかないのだが、もっと余計な部分があっても良かったのではないか?という気もする。
破綻と言うか…。(…わがまますぎだ。)

(この作品を読んだ当時、私も南北朝の東北を舞台にした芝居を書こうと考え書きかけたが、人物を多くし過ぎ、途中で破綻して未完のままお蔵入りにしてしまった。
余りにステレオタイプになってしまったため破綻させようとして失敗したのだ。私の場合は単なる実力不足だ。)

続編を読みたい気もする。
が、書かなくても良い気もする。
作家的にはどうなんだろう。

書かなくても…と思うのは、たぶん、別物になってしまうんではないかと思うのだ。
例えば人物描写という点では「もやしもん」の方が優れていると思う。
ではあの物語で「もやしもん」なみの描写が出来るだろうか?
永野護のFSS並みの時間をかけるつもりなら別だが…時間をかければかけるほど、あの作品のよさの一部が無くなって行くような気がする。

時間を掛ければこそ伝わることがある。
時間が無いからこそ伝わることもある。
あの作品で伝えるべきことは、「勢い」だと、私は思う。