2004年8月23日月曜日

『イノセンス』サウンドトラック

ひさしぶりにCDを買いました。
映画『イノセンス』のサウンドトラックです。
映画は見逃しました。でも川井憲次の音楽世界は好きなので後悔することは無いだろうと思って買ったのですが(正確には買ってもらったのですが。)、…イイ!!
二曲目の「傀儡謡_怨恨みて散る」でビビッとはまり、五曲目の「ATTACK THE WAKABAYASHI」でワクワクドキドキしています。
現在聴いてる最中。
ひさしぶりに、聴きまくりそうな予感です。

2004年8月10日火曜日

オタクの境界線

パソコンの音回りの調子がおかしくなりました。
モジュールはちゃんと組み込まれてるし、スピーカを変えても変わりなし。
さんざんいじり、治らず、今朝改めて立ち上げると治ってました。
なんだったんだ。
チェックのため、手持ちのMP3ファイルをかけてると、妻が嬉しそうに
「エヴァンゲリオン?(ニヤニヤ)」
と効いて来ました。
私がオタクなのがそんなに嬉しいのか。(T T

ところで、オタクであることを忌避する想いが強いのは、たぶん境界線上にいる人間なのだと思う。
これは、先日読んだばかりの『の境界』にも書かれていたことなのだが。
沖縄、北海道、台湾や朝鮮の人々は"日本人"に編入された歴史を持つ。その際、問題の焦点になったのはまさに、どこに"日本人"の境界線を引くかと言う点だった。
国家は税収や兵力のために、出来るだけ多くの人々を国民とし、多くの土地を国土として国家に編入したい。
でも、国民としての権利を与えることは出来るだけ少なくしたいというアンビバレンツな欲望がある。
そして境界線上にいる人々もまた、その欲望に翻弄される。
国民としての権利を得るために、国民の義務を喜んで負い、国民として既に認められている人々以上に国民らしくあろうとする。
また、国民らしくあることを少しでも忌避する人々は、それがゆえに、国民としての権利の一切どころか人間としての権利すらも諦めなければならなくなる。
そして、その闘いの中でも、結局は引かれた境界線に翻弄されざるを得ない。

オタクの境界線にいる人々は、オタクであると馬鹿にされることを忌避するならば、自らがオタクであることを否定するために、よりオタク的な様々な見方考え方、知識や技術を隠し、他のオタクの人々をまるで悪逆非道な奇人の様に差別しなければならない。
だが一方で、好きな世界を少しでも堪能したいと考えるならば、「オタク」として差別されることを甘んじて(あるいは安んじて)受け入れなければならない。

最も問題なのは、境界線を引かずにいられない人の心のストレスであり、境界線を引くことを前提としない関係性の在り方を求めることだ。
だが、その道はあまりに曖昧模糊としていて進みにくい。
前述のエヴァンゲリオンにしても、当初、自分と他者との境界線の引き方の話であり、かつその概念を突破するための物語でもあった。(結局腰砕けになってしまったわけだが。)
どうしたら、境界線の問題を解決することが出来るのだろうか。

2004年8月8日日曜日

ビデオ鑑賞『朝日のような夕日をつれて'97』と『攻殼機動隊 - GHOST IN THESHELL -』

昨夜、以前から友人に借りていた第三舞台の『朝日のような夕日をつれて'97』のDVDを見ました。と言っても飛ばしながらですが。
学生の頃、『~'91』を演劇部で上演しようとしたことがあったのですが、他のメンバーとの温度差があり過ぎて中止。部を辞めるきっかけにもなりました。
実は、ビデオ以外で第三舞台の芝居を見たことはありません。この『朝日~』も台本で読んでいただけでした。でも、なんか良いと思ったんですよね、当時は。
DVDとは言え改めて見てみると、当時、鴻上が後書きなどでぼやいてた先輩演劇人のダメ出しと言うのが良くわかる気がします。役者の力だけで時間を成立させていく。それも極めてテンポ良く。それが得てして表層的な疾走感を狙っただけの何も残らない表現に見えやすい。
これは野田やつかの芝居にも言える気はします。
ただ、当時(そして今)の"現在"を的確に表現しようとしたとき、これはありだろうなとも思いました。あの日、あの時、あの場所を共有できた人達に取っては、あれは特別なものになり得たと。
そして演劇は、結局その日、その時、その場所でしか存在し得ない物なのだから、そういう意味で言うなら実に演劇的な演劇であるとも言えるでしょう。
ただまあ、あまり好みじゃなかったみたいです。すごいなあとは思うけど。

数日前に高校生の頃にはまった『オネアミスの翼』を観ました。
懐かしかった。惜しむらくは、パソコンの小さいウィンドウだったことですが。
一時期、これを観て宇宙飛行士になろうとか本気で考えた物でした。学力が追い付かなくて辞めましたが。
思えばあの頃から、未来の目標に乏しい人間でありました。

あと、『攻殼機動隊 - GHOST IN THE SHELL -』も観ました。
リアルタイムで見た当時は、士郎世界と押井世界の融合だ!と感じて感動したものでしたが、改めて見ると、どっちかと言うと原作のダイジェストに終止した作品だったのだなと思いました。
あまり押井っぽくない。そして原作にある言葉やシーンを割とそのまま大目に使っている。
継ぎ接ぎの仕方がそれなりのレベルなので良いのですが、『紅い眼鏡』や『御先祖さま萬萬歳』、『人狼』などに見る押井美学とでも言うべき物は影を潜めてる感じがしました。

昔見た、それも結構当時熱狂的に見たものを改めてみると、新しい発見があって面白いです。
でも、一抹の寂しさも感じるのは、感傷でしょうかね…。

2004年8月4日水曜日

『<日本人>の境界』読了

図書館から借りていた『日本人の境界』をざっと読み終わった。
かなり飛ばしたけど、面白かった。
沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮の、日本による同化、併合、支配と、それへの反発。日本の敗戦による独立や本土復帰の流れを様々な資料を通して見つめ直し、得てして単一民族を思われがちな「日本人」というものと「外」との境界線付近にいる人々の変遷、変化から、境界線を引くこと自体の危険性、不条理性を描き出した本です。
まだ読み終わってすぐなので言葉にまとまらないので、感想はまた今度。
結構、目から鱗な本でした。

2004年8月3日火曜日

自己完結

先日借りた村上龍の本に、「日本人ほどオナニーの好きな民族はいないってこと。」という言葉がありました。
日本人は細かい差異を楽しむ民族である。それはセックスに対してもそうであり、それが新聞や雑誌の膨大な種類の風俗店の広告などに表れているというのです。他国では、これほど様々な"抜き屋さん"は存在しないんだとか。
そして、その多様さは、結局、己にとって理想的なセックスを一方的に(他人の手を借りて)実現することへの欲求から生まれてます。
これは他者とコミュニケーションをとることを苦手とする日本人の性質から生まれており、そして、このコミュニケーション不全性が、黒船以降の日本の"外国"に対するアレルギー反応に(過剰な反発や、無条件の受容、降伏)つながっているという話につながっています。
コミュニケーション不全症は現代病ではありますが、日本人が古代から持ってきた民族的特性でもあるというわけです。

日本人は歴史的に、様々なものを平和に取り込み飲み込み合成融合してきたと言われています。
これは、いわゆる日本特有の「玉虫色の解決」の結果です。
無批判に取り込んだように見え、実は表面的な部分だけを取り込んで、根本的な(これまでの在り方と衝突する)部分をあえて無視することで過去との衝突を避け、新しい装いにすることで今に取り入る。
唯一無視されるのは未来。
未来-こうあるべきと言う理想的な姿を強く持ち出せば、それは他者との強い対立を余儀なくされます。それは"これまで"への攻撃とみなされます。
だから、未来、夢を語るものは嫌われてきました。
なんか、私自身、そういう部分が強くあるので嫌になります。

自分を保ちつつその欠点を冷静に見つめ、他者の意見を分析しつつ必要に応じて臨機応変する。そんな在り方が出来たらと願わずにいられません。
学生時代に、演劇部の先輩が「俺はもう十分やり尽くしたから」と言ってさっさと退部した時、何言ってんだ、と思ったものですが、あの時の先輩は今頃それなりの仕事やそれなりの家庭生活を営んでいるのでしょう。
考え様によっては、あの先輩の方がしっかり未来を見ていたと言えるのかもしれません。
芝居に浸っている時、その今しか考えられないということは、今に阿ることでしかないわけです。
でも、そこにだって、戦う余地はある。あの頃も今も、私は捕え所もない創作の世界の中に、魅力を感じていたし、そこで彷徨い野垂死ぬ覚悟もあるつもりでした。戦う力=生きる力がもっと欲しい。
もっと、きっちり生き切りたい。