2010年6月28日月曜日

どう生きてどう死ぬかを子供は見ている

父が死んで100日以上過ぎた。
父のことを思い出して泣いてしまうようなことは無くなった。

仕事は面倒くさい仕事が増え、しかも自分の仕事がなかなか出来ない状況が続いている。
ここまで来た仕事の遍歴を考えると、私が仕事を選ぶ基準は「他の人がなかなか手を出さない面白い仕事で、人の役に立って感謝される仕事」というものだった。

でも、面白い仕事は、慣れれば面白くなくなる。
人の役に立つ仕事はいくらでもあるが、「感謝してもらえる仕事」となるとほとんど無い。
また、感謝してもらえる仕事はお金になりにくい。

そんなこんなで仕事を色々と遍歴し、コンサルになった時は、上記+お金が儲かる仕事ということで大躍進を狙っていたのだが、結局挫折して、今に至っている。

これまで、それを考える時、いつも主軸は自分だった。
でも、それだけじゃちがう様な気が、最近してきた。

父と母は私の小さい頃、仕事のことで毎晩喧嘩していた。

あの時、父と母の言い争ったことの最大のポイントは、言ってしまえば、「父にとっては実家の母や兄弟も自分の妻子もみな家族だが、母にとっては自分と夫と子供が家族だ」ということに還元出来る。
父と母の職場は父の実家であり、祖母や叔父が共同経営者という状況もあって、また、あくまで長男(叔父)の家計が後を継ぐが、現実的には様々な業務のほとんどは父と母が行っていたということも面倒くさい状況を作っていた。
そんな中で、結局会社=実家に対して犠牲を強いられていることに耐えられないと訴える母とだからと言って放り出すわけに行かないと話す父の会話はいつも平行線で、離婚するだのなんだのという話も何度も出ていた。

(結局、死が二人を分かつまで一緒に生活していたのだが)。

闘病の床にいた父と話していた時、父がエンジニアとして社会に打って出る夢を持っていたことを聞いた。
しかし、大学時代に祖父が死に、結局その夢は果たせないまま故郷にくすぶることになった。
だが、そういった外因ばかりでなく、自分自身エンジニアとしての勉強をしっかりしてはおらず、いずれ挫折するのでは?との不安感を持っていたこともあって、それから逃れるような思いもあって実家に帰ったとも言っていた。

そんなこんなで、実家の家業を継いだ叔父のサポートをすることになった父にとって、実家を盛り立てることは、自己実現の手段でもあったのだろうと、想像出来る。

でも、もし、父が自分の夢に忠実に生きようと考えていたら、あるいは、母が父の持っていた夢を盛り立てる方に話を持って行っていたら。
状況は大きく変わっていただろう。
父の実家の家業は倒産していたかも知れないし、今の私は居なかったかも知れない。

だが、そうはならず、父は母と喧嘩しながら実家の家業を盛り立て続けた。
その無理が祟って倒れてからは、母との生活を大事にした第二の人生を送っていた。

父は、私に自分の理想や夢を押しつけることはなかった。
それは、自分が夢に忠実になれなかったことに対する思いもあったのかもしれない。

父は、みんなが幸せな生活を送れることを、何より願っていた。
そのために自分が為すべき事を黙々とやっている人だった。

もちろん、父が自分の夢に向けて進んで行こうとしなかったことや、言葉が少なかったために母と揉めることが多かったことなど、欠点を挙げれば色々ある人だけど、少なくとも、父はその時その時で精一杯自分が出来ることをやってきた。

では、私はどうなんだろう。
精一杯やって来たとは思うけど、今の状態がベストだとも思えない。
経済的には余裕が無く、将来にも不安だらけ。
職場に対しても不満を抱えて、昨今では鬱っぽくなることも多い。

でも、こういう私を、子供達は見ている。

言葉ではなく、その生き様を。
生き方と死に方を。

これを機会に、残された期間、どんな生き方をしてどんな死に方をすべきか、少し考えたいと思う。