2005年7月23日土曜日

「星になった少年」

妻が懸賞で招待券を当ててくれたので家族三人+友達のNINさんと一緒に観に行ってきました。
まー色々とツッコミ所のある作品でした。
まだ上映中の作品なので、詳しい内容については省略します。

原作を読んでいないのでなんとも言えない部分はあるのですが、なんかテーマが絞り切れていない様に思います。
有り体に言えば、
主人公と母を中心にした「家族の発見と再構築」の物語。
主人公の「自己実現」の物語。
大きく分けてこの二つ。
更に「いじめ」や「日タイ文化交流」や「象との交流」等々。
これらのテーマを複合的に上手く描くことは可能だと思いますが、この作品では上手くいっていないと思います。

予告編やCMではどちらかと言うと「自己実現」や「文化交流」、「象との交流」がメインの物語のように思われましたが、本編ではむしろ「家族の発見と再構築」の方に力を入れようとして(失敗して)いたように思います。
この二つは本来対立するものではないのですが、今回失敗していると思った原因は「象」と「家族」ではないでしょうか。

今回の映画、良くも悪くも「象」が大きなキーワードになっていますが、日本において象はけして一般的な、つまりそこらへんで良く見掛けるような動物ではありません。
象と交流出来ると言うことは、極めて特殊な状況であり特別な能力であります。象が出てくると言う、それだけでエキゾチックな雰囲気を醸し出します。
今回の映画ではその象と交流する少年もまたちょっと特殊な環境に育ち周囲と交流することが出来ずにいた少年であり、その交流は否応なくロマンチックなものとなります。

一方の「家族」ですが、「家族の発見と再構築」を描く場合、その家族の有り様がその発見と再構築のドラマ性と直結してきます。
そしてこのテーマは「"家族"と言うものが存続している」という前提と「それはすでに崩壊している。」という認識、そして「それでも形を変えて"家族"は存在している。」という結論から成り立つ場合が多いです。
ですので、そこに現れる家族がその時点その世界での一般的な家族イメージに近い程、ドラマ性が高まります。
今回は、やりたいことを追い求め家族を犠牲にしつつ仕事に邁進する母と家族という点では現代的ですが、お互いに助け合ったりしつつ、必要なら他の動物を切り売りしつつ、それなりに上手くいっています。
つまり崩壊していません。
母と息子の対立はけしてシリアスになることはなく、交流はしないまでも同じ道を並んで進んでいます。
テーマとして持ち出しながら、ドラマ性を引き出すのに失敗しているという感じでしょうか。
普通でないがまあなんとなく上手くいっている家族がそれなりに上手くいっていることを確認し、崩壊することなく終わってしまったわけです。

つまり、「家族」テーマが求める一般性と「象」の醸すロマン性が対立してしまったんですね。

正直な意見を言えば、ロマン性を中心に据えそちらを突き詰めて、時間を半分にして「家族」テーマは削った方が良かったと思います。二時間は長い。
特に最後の方で彼女(?)が主人公の母親と語るシーンは蛇足だと思いました。あそこを削って死→象のラインをはっきりさせた方が良かったと思います。
とは言ってもそうはいかなかったんでしょうね。制作的には。

嫌な見方ですな。(^^;

劇中劇で武田鉄矢が言っていたのですが、「子役と動物には敵わないわ」という言葉、残念ながら今回はチョイ役の武田鉄矢と主人公と象、良い勝負だった気もします。印象と言う点では。(^^;

ところで、タイトルの「星になった少年」ですが、正確には「象になった少年」だったと思います。
「星になった少年」なら、ランディの額の星が増えるとか。
それもオリオン座だと思ったら北斗七星になっていたとか。
「北斗七星を持つ象」とか呼ばれて、救世象になるとか。
更に一つ星が増えちゃって、みんながそれ見ちゃって大変なことになっちゃうとか。
なんだそりゃ。

2005年7月14日木曜日

「加藤隼戦闘隊」

1944年に作られた映画です。
途中の三十分だけ見ました。
戦中(もちろん太平洋戦争)に作られた戦意高揚のためのドキュメンタリー映画であります。
1940年に制定された加藤隼戦闘隊、加藤建夫少佐の活躍を描いた作品です。
フィルムの画質はこの当時のフィルムとしては良い方でしょう。
ただ話としては最近のドラマちっくなドキュメンタリーになれた身には退屈なもので、盛り上がりに欠ける感じがして途中で見るのを辞めてしまいました。
まあ、最後まで見ないで言うのも無責任ですが…。

ただ見どころは円谷英二による特撮シーンでした。
白黒・古いフィルムという悪条件が当時の特撮技術には良くマッチしているのか、良く溶けこんでどこが特撮シーンかわからない位でした。
もちろん、良く見ればわかるのですがレベルは思っている以上に高かったです。
初期ゴジラもそうですが、粗悪な画質がかえって想像力を高めてくれるのですね。
最近のCG満載の映画と比べて(ストーリー展開はともかく)戦闘シーンの臨場感では引けを取らないと思いました。
戦後米軍が、戦場で実際撮った記録映画であるとして接収していったというのもうなずけます。

この当時に作られた映画としては以前、やり手で志の高い芝居小屋の座長と才能の有る若い役者の師弟愛を描いた「芝居道」と言う映画を見ました。
これが結構面白い。
芝居をする人間なのでそう感情移入したためかも知れませんが、一人一人キャラが良く立っていて展開も良かった。
時節柄あまり批判的なことも書けないでしょうに、それを感じさせないお話でした。
「お客さまが本当に見たいものを一心に考えてそれを追い求めていくのが芝居者の生き方。儲けは二の次三の次。」というテーマは今にも通じる芝居者の永遠の真理の一つですね。

二つを比較するとそれぞれに味が有り、甲乙は付け難いです。
好みで言えば「芝居道」ですが、「加藤隼戦闘隊」の特撮は圧巻です。

戦中の映画は戦意高揚のためのプロパガンダが中心、内容は薄いと言うのは思い込みだったというのを思い知りました。
制約が有るなりに、その時の持てるものをギリギリまで出して作られた作品達なんだと思いました。

2005年7月9日土曜日

『サンプル・キティ』明智 抄:著

「別冊花とゆめ」誌上に1993~1995の間連載されていた作品です。
全四巻の三巻まで読みました。
絵柄は少女まんがなのですが、何とは無しに読みはじめて、嵌まりました。
詳しい内容はこちらのサイトこのページ等を参照してみて下さい。他にも"サンプル・キティ"、"明智 抄"でいくつか引っかかります。
割とコアなファンのいる作家さんのようです。

始まりは、ごく普通の主婦小夜子を主人公にしたレディコミ風の少女まんがでしたが、話が展開していく内にハードな設定のSFであることがわかってきます。
すごいと思うのは、どんなにハードなSFとして展開していっても、決して主婦の視点を失わないという点でした。

主婦の視点と言うか、「ごく普通の生活を過ごす」と言う点にとても拘っている点ですね。これって、SFものの物語ではあまり見られないことなんですよね。
超能力の軍事利用を血縁同士の(体外受精ですが)受精によって推し進めて行くという話が骨子になっており、小夜子自身がその渦中の「サンプル」です。
物語はその「サンプル」を追い求める人々とそれを妨害しようとする人々のやりとりで進んで行くのですが、そういうお話の場合、普通主人公は世界の平和だとか人道的な正義だとかいう高い視点から見た"正しい"ことを中心に据えて考えるように描かれがちです。
異常な状況の中で解脱するというか悟る訳ですね。
ところが、この物語ではそれが無い。
小夜子は最終的に(自分ではコントロールできなかった様ですが)
その巨大な能力で、関係者全ての頭からこれにまつわる全ての事項を消し、代えの記憶を植え付けて「ごく普通の生活」を取り戻してしまいます。
ものすごい超能力を持つ人が、その力を振り絞ってなにも無かったことにしてしまうと言う点です。それも割と一方的に。
他の物語だと主人公と同じレベルの能力者との対決が描かれたりしがちですが、この作品にはありません。
(実際は対決があったのですが、あまり前面に押し出されません。)

この作品の少し前に時期に「花とゆめ」誌上に連載されていた「ぼくの地球を守って」と比較してみるのも面白いと思います。
「ぼくの…」では、絶対的な能力者輪=紫苑と女子高生亜梨子=木蓮の恋模様(ん?)を主軸にしつつ、これまたハードなSFが展開していくわけですが、「サンプル・キティ」と比較して特徴的なのはこちらは、"女子高生のごく普通の生活の範囲をあまり超えない中で"物語を展開させて行きますが、主人公達の意識は途中から"普通の高校生"のレベルを超えた世界に移行していきます。
亜梨子の覚醒が最後の最後まで引っ張られていたのは、逆に言えば、その覚醒を前述した"悟り"のイメージに持っていったと言えます。
また、超能力者同士の戦いも随所に出てきます。このへんも「サンプル・キティ」ではあまり見られない部分です。「ぼくの…」に出てくる超能力は大抵能力者がきちんとコントロールしているのに対し、「サンプル・キティ」では、きっちりコントロールされた超能力はあまり現れず、その現れ方もなんだかモヤッとした描かれ方がされています。(どちらかと言えば人の心を直接操る能力が中心だからですが。)

二巻・三巻は一巻の最後でいなくなった生まれたばかりの乳児サンプルFと研究者エリーを中心にした十数年後の物語です。
こちらでは、やや"ごく普通の生活"を壊す方向の力が描かれてますが、その収束点として求められたのはやはり"ごく普通の生活"であります。
そして、その"ごく普通の生活”が、なんというか、血によって支えられているというような描写が出てきます。
実はこの辺、あまり理解できてない気がします。
ただ思ったのは、"ごく普通の生活"と言うものが嘘の固まりで出来た虚構である、意味の無いものであるという扱いをされがちだけれど、それを得ることそしてそれを続けることと言うのは、本当はとても得がたいとても価値の有るものなのだというような力強いメッセージが隠されているのでは?ということでした。

近代から現代にかけて、現実の虚構性を暴く晒すような物語が多く描かれました。
70年代から80年代、それらの物語の結果全てが無価値であるという考え方が一般化しシラケたムードや表面的な狂騒を描く物語が増えました。
90年代、それでも埋めることの出来ない空隙が巨大化し、"物語は死んだ"という言葉が真理のように語られました。これは同時に"虚構っぽい程真理に近い"という風潮を生み、新興宗教やトンデモ科学に真理を求める人が急増しました。
そして、今。
"ごく普通の生活"を表面的な嘘で固められた無価値なものであると看破することは、ごくごく簡単です。
ここ数十年の積み重ねで、否定する材料はいくらでも有るのです。
"ごく普通の生活"だけではありません。
ただ"生きる"と言うこと自体が簡単に否定されています。
「思っていれば夢は叶うよ。」という無責任にバラまかれている言葉は「なにか意味が無ければ、夢のような生き方でなければ、真実の生き方ではない。死ぬべきだ。」という呪いの言葉の裏返しです。
日本人はこの数十年で"本当に価値のあるもの"を片っ端から使い捨て、反故にしてきました。
使い捨てになる理由は、なんのことはない、"価値のあるもの"と"価値の無いもの"とを差別してきた結果だと思うのです。
今風の言い方をすれば"勝ち組"、"負け組"ですね。
価値の有る方が過剰に称賛されればされる程、価値の無い方に属してしまった人間の生は否定される。
もちろんこれは、古今東西無かったことの無い現象なわけでは有りますが、他の時代、他の地域では大抵、最低限のベースとして"生きること"は絶対の命題とされて来たと思います。
現代日本においてはそれは否定されてしまいました。
(イラク人質事件辺りが良い例ですね。)

閑話休題。
"ただ平凡に生きること"を否定する世の中に対するアンチテーゼ。
「ただ平凡に生きることこそ一番得難い、一番価値の有る事だ。」というテーマ。
大袈裟化も知れませんが、「サンプル・キティ」の底に流れるのはそのテーマであるような気がします。

作者は、主婦業をしながらその合間を使って漫画を描いていると聞いた記憶が有ります。
そうだとしたら、主婦業を大事にしているからこそ描くことが出来た物語なのではないでしょうか。

四巻、読みたいなー。

2005年7月6日水曜日

岩盤浴

行ってきました。岩盤浴。
岩盤浴とは、熱せられた岩のベッドの上に寝転んで暖まるサウナ風のもので、毒素を出すとして最近流行りだそうです。
何故か近所にあるのです。
それもつぼ八のあるビルの一階に。
毒素を出してすっきりしたら、生ビールをきゅっと一杯とか、そんな感じなのでしょうか。
妻と息子と一緒に行ってみました。

若林区大和町の「和みの癒」。入浴料は1,200円。会員になると200円引き。(入会料が200円。)貸し浴衣が300円、貸しタオルが300円、貸しタオルと貸し浴衣と500mlのミネラルウォーターのセットが500円…だったかな。
出来るだけ節約するためハンドタオルとバスタオル、ペットボトルに水を入れて持ち込み、浴衣だけレンタルしました。
(浴衣も必須ではないそうで、Tシャツに短パンで良いそうです。)
アジアンなカウンターで手続きが終わると、浴衣に着替えていざ浴室へ。女性専用の浴室と、男女混浴の浴室があります。それぞれ十五・六床位です。一人一床ずつになります。浴衣で入るので混浴が可能なわけですね。
結構、むわっとします。サウナ程ひりひり感はありません。
自分の区画に敷物(これは必ず渡される。)とハンドタオルとペットボトルの水を持ち込みます。区画の岩盤に敷物を敷いて寝転がります。
うつ伏せ五分、仰向け十分、クーラーの効いた別室で休憩五分が一セット。これを二・三回繰り返すのが基本だそうです。
気持ち良い。
いや、まじで気持ち良い。
気が付くと汗がかなり出ている。
リラクゼーション効果もかなりありそう。
ただ、息子にはちょっとしんどい様子。
最初の一回はなんとか良かったものの、二回目以降はもう暑くて駄目だったようで、数分おきに休憩する状態。
普通の風呂もぬるめが好きな方だし、ただ寝転がっているって言うのもヒマ過ぎて耐えられなかった様子。
交替で休憩の相手をしてやりつつ、四十分程で上がることになりしました。
最後は少々慌ただしくなったものの、そこそこリラックス感を満喫できました。汗も結構かいてすっきりしました。
今度は、温泉とかと一緒になってるとこの方が良いと思いました。息子もそういう所なら楽しめたでしょうし。
さもなければ、息子が学校に行っている時に満喫するか。

学生の頃、なにを思ったか急に思い立って、昼間に仙台駅前のサウナに行ったことがありました。
そこそこの歳のおじさんが数人サウナ入ったり水風呂につかったり、マッサージチェアに寝転がったりしていました。
この人達はなにを求めてこんなことしてるんだろと思った記憶がありますが、…その人達の気持ちが少しわかった気がした一時でした。

2005年7月4日月曜日

Gin's Bar Actor's Gym公演「COLORS」

「COLORS」を観て来た。
恋愛モノは苦手だなぁと思った。
おしりの辺りがむず痒くなるという噂を聞いていましたが、噂に違わぬ作品だった。
等身大の女性の恋愛エッセイの朗読やエチュードで綴るオムニバス演劇。

Actor's Gymで研修中の女優達が自分自身に出会う。

モノローグ、ダイアローグの稽古をしながら自分自身の物語を創作し発表します。


個人的な趣味で言うと役者二人によるエチュード物は面白かったけど、三分の二以上を占めるモノローグ、ダイアローグは観ていてしんどかった。

あそこで語られていた言葉はおそらく役者と演出とで共同で作っていったものなのだと思うが、あれらのモノローグ、ダイアローグを"等身大の女性"の言葉とするのはいかがなものか?
穿った見方かもしれないが、男の演出のフィルターでだいぶ不純物が漉し取られたもののように感じた。
おそらく(題名からして)、一人一人の女優の個性を大事にし、その個性がいくつもの色を並べたように見えればと企画されたのだと思うのだが、この演出のフィルターによって一人一人の不純物が失われたために、結局は七人共がほぼ等質なものになってしまった。
二人でのエチュードでは、このフィルターが比較的少なく、おかげで各役者の個性が少しだけ見えた。
でも、正直これで「COLORS」と言うのは看板に偽りありですぜ。

演技者はセリフを一度自分自身から引き剥してその言葉との距離を探り直す必要がある。
今回の作品では、言葉を役者から引き出したことで十分リアルであると考えて、その辺の作業を抜いてしまったのではないだろうか。
言葉自体ネタ自体がその役者から出たものでも、それを演じるとなれば他人の言葉他人のネタと同じ、否、むしろ下手に思い入れがある分かえって難しいと思う。
等身大の自分と思っているものは、自分フィルターを通した自分であり、他者から見れば歪んだものである。
もちろん逆もまた真である。
この両者をぶつけあい、摺り合わせることで、本当の意味での等身大の自分が浮かびあがって来る。
この摺り合わせがほとんど感じられなかった。

例えば、他人が作った言葉を読ませるとか、全く同じ言葉を何人もで読ませるとか、二人ものだけでなく三人もの、四人もののエチュードをやらせるとか、女優同士がぶつかり合わざるを得ない仕掛けを用意し、その表面的なやり方にはもっと自由度を高めておくなどした方が、そのギャップを埋めようとする足掻きの中から本当の各人の色-COLORSが浮かびあがったのではないだろうか?

まあ、それはあんたの趣味だろと言われればそれまでだが。

2005年7月3日日曜日

「GHOST IN THE SHELL-攻殻機動隊-」

まあ、果して息子にとって嬉しいことかどうかはともかく、彼とは趣味の方向が合うことが多いようだ。YMOとかアニメの趣味とか。
もちろん、趣味が合わない部分も多い。
親子と言えども他人なのだなと思うのだが、時々妙に趣味がマッチしてびっくりする。

今日、「GHOST IN THE SHELL-攻殻機動隊-」をスカパーで見た。
何故何故攻撃は激しかったものの、その分楽しんで見ていた様子。

映画館で見て以来、久しぶりにまとめて見た。
今の時点から見ると、映像的にはStand Alone Complexの原型としての印象の方が強く感じられる。映画としての完成度では正直、「イノセンス」の方が上だと思う。…上というか、押井守らしいなぁと思う。

「GHOST…」で押井守が描こうとしたのは、実はサイバー世界の神話だったのではないだろうかと今回見てて思った。
異種婚というか、デジタル世界の妖怪・妖精たる人形使いと、人間世界の魔導戦士たる草薙素子の結婚譚としての部分を描こうとしたのではないだろうか。
原作『攻殻機動隊』でも、その要素は確かに組み込まれているけれど、それを前面には押し出さない(と言うか、士郎政宗の作品は、あらゆるデータを割と等価値に扱う-膨大な情報の裏付けによって情報の質への拘りを無くせしめる。)方向で描かれている。

これを押井守らしくないと感じたのは、押井作品の多くが、神々の話ではなく、神々を祭らずにいられない人々、逆に神々にまつろわぬ人々の物語であるというせいだろうと思う。
例えば、「紅い眼鏡」や「人狼」などのケルベロスを扱った一連のシリ-ズは、「犬」をモチ-フに、前述のようなテ-マを描いてるように思う。「パトレイバ-2」等の映画版パトレイバ-でも、その辺のテ-マは大事な要素とされていた。
このテ-マは、「GHOST…」ではほとんど語られていない。

草薙素子はある種の縛りの中にいたが、それは他の作品でモチ-フにされている「犬」としての縛りではなく、神に対する人間としての縛り、イカロスの翼的な縛りだろう。
押井守の真骨頂は、やはり神を仰ぐ愚民達の悲喜劇であろうと私は思う。
それは私の趣味だと言われればそれまでだが。
神話としての完成度も、実は高くないと思う。
以前、どこかで書いたが、原作にある意味気兼ねした結果であろうか。神話としての練り込みが足りない様に思う。現象の説明に終止してしまっているのだ。

余談でもあるが、息子に聞かれて一番困ったのは最後のシ-ンだった。
「なにがどうなったの?」
「あの女の人と人形使いが一緒になったんだよ。」
「?????」
アニメにおいてそれはありなのか?という辺りから説明が必要になってしまい、大変だった。たぶん、納得はしていまい。
あと三十分追加してバト-やトグサの方から描き込んでも良かったのではないだろうか。
まあ、それをやっていたら、あるいは「SAC」も「イノセンス」もなかったかもしれないが…。

スカパ-では明日、「イノセンス」もやる。
楽しみだ。
説明は…また大変そうだ。
「人狼」もやってくれないかな…。