恋愛モノは苦手だなぁと思った。
おしりの辺りがむず痒くなるという噂を聞いていましたが、噂に違わぬ作品だった。
等身大の女性の恋愛エッセイの朗読やエチュードで綴るオムニバス演劇。
Actor's Gymで研修中の女優達が自分自身に出会う。
モノローグ、ダイアローグの稽古をしながら自分自身の物語を創作し発表します。
個人的な趣味で言うと役者二人によるエチュード物は面白かったけど、三分の二以上を占めるモノローグ、ダイアローグは観ていてしんどかった。
あそこで語られていた言葉はおそらく役者と演出とで共同で作っていったものなのだと思うが、あれらのモノローグ、ダイアローグを"等身大の女性"の言葉とするのはいかがなものか?
穿った見方かもしれないが、男の演出のフィルターでだいぶ不純物が漉し取られたもののように感じた。
おそらく(題名からして)、一人一人の女優の個性を大事にし、その個性がいくつもの色を並べたように見えればと企画されたのだと思うのだが、この演出のフィルターによって一人一人の不純物が失われたために、結局は七人共がほぼ等質なものになってしまった。
二人でのエチュードでは、このフィルターが比較的少なく、おかげで各役者の個性が少しだけ見えた。
でも、正直これで「COLORS」と言うのは看板に偽りありですぜ。
演技者はセリフを一度自分自身から引き剥してその言葉との距離を探り直す必要がある。
今回の作品では、言葉を役者から引き出したことで十分リアルであると考えて、その辺の作業を抜いてしまったのではないだろうか。
言葉自体ネタ自体がその役者から出たものでも、それを演じるとなれば他人の言葉他人のネタと同じ、否、むしろ下手に思い入れがある分かえって難しいと思う。
等身大の自分と思っているものは、自分フィルターを通した自分であり、他者から見れば歪んだものである。
もちろん逆もまた真である。
この両者をぶつけあい、摺り合わせることで、本当の意味での等身大の自分が浮かびあがって来る。
この摺り合わせがほとんど感じられなかった。
例えば、他人が作った言葉を読ませるとか、全く同じ言葉を何人もで読ませるとか、二人ものだけでなく三人もの、四人もののエチュードをやらせるとか、女優同士がぶつかり合わざるを得ない仕掛けを用意し、その表面的なやり方にはもっと自由度を高めておくなどした方が、そのギャップを埋めようとする足掻きの中から本当の各人の色-COLORSが浮かびあがったのではないだろうか?
まあ、それはあんたの趣味だろと言われればそれまでだが。
あ。新しいblogでは初カキコだ!
返信削除COLORS。観に行けなかったんですよぅ。(泣)
随分と厳しい御意見ですが、やはり表現者としての
水天堂さま故の御意見なんでしょうね。
ところで、あの野中ギャラリーに、あのCAST数で
観るのは辛くなかったですか?(笑)