2005年7月9日土曜日

『サンプル・キティ』明智 抄:著

「別冊花とゆめ」誌上に1993~1995の間連載されていた作品です。
全四巻の三巻まで読みました。
絵柄は少女まんがなのですが、何とは無しに読みはじめて、嵌まりました。
詳しい内容はこちらのサイトこのページ等を参照してみて下さい。他にも"サンプル・キティ"、"明智 抄"でいくつか引っかかります。
割とコアなファンのいる作家さんのようです。

始まりは、ごく普通の主婦小夜子を主人公にしたレディコミ風の少女まんがでしたが、話が展開していく内にハードな設定のSFであることがわかってきます。
すごいと思うのは、どんなにハードなSFとして展開していっても、決して主婦の視点を失わないという点でした。

主婦の視点と言うか、「ごく普通の生活を過ごす」と言う点にとても拘っている点ですね。これって、SFものの物語ではあまり見られないことなんですよね。
超能力の軍事利用を血縁同士の(体外受精ですが)受精によって推し進めて行くという話が骨子になっており、小夜子自身がその渦中の「サンプル」です。
物語はその「サンプル」を追い求める人々とそれを妨害しようとする人々のやりとりで進んで行くのですが、そういうお話の場合、普通主人公は世界の平和だとか人道的な正義だとかいう高い視点から見た"正しい"ことを中心に据えて考えるように描かれがちです。
異常な状況の中で解脱するというか悟る訳ですね。
ところが、この物語ではそれが無い。
小夜子は最終的に(自分ではコントロールできなかった様ですが)
その巨大な能力で、関係者全ての頭からこれにまつわる全ての事項を消し、代えの記憶を植え付けて「ごく普通の生活」を取り戻してしまいます。
ものすごい超能力を持つ人が、その力を振り絞ってなにも無かったことにしてしまうと言う点です。それも割と一方的に。
他の物語だと主人公と同じレベルの能力者との対決が描かれたりしがちですが、この作品にはありません。
(実際は対決があったのですが、あまり前面に押し出されません。)

この作品の少し前に時期に「花とゆめ」誌上に連載されていた「ぼくの地球を守って」と比較してみるのも面白いと思います。
「ぼくの…」では、絶対的な能力者輪=紫苑と女子高生亜梨子=木蓮の恋模様(ん?)を主軸にしつつ、これまたハードなSFが展開していくわけですが、「サンプル・キティ」と比較して特徴的なのはこちらは、"女子高生のごく普通の生活の範囲をあまり超えない中で"物語を展開させて行きますが、主人公達の意識は途中から"普通の高校生"のレベルを超えた世界に移行していきます。
亜梨子の覚醒が最後の最後まで引っ張られていたのは、逆に言えば、その覚醒を前述した"悟り"のイメージに持っていったと言えます。
また、超能力者同士の戦いも随所に出てきます。このへんも「サンプル・キティ」ではあまり見られない部分です。「ぼくの…」に出てくる超能力は大抵能力者がきちんとコントロールしているのに対し、「サンプル・キティ」では、きっちりコントロールされた超能力はあまり現れず、その現れ方もなんだかモヤッとした描かれ方がされています。(どちらかと言えば人の心を直接操る能力が中心だからですが。)

二巻・三巻は一巻の最後でいなくなった生まれたばかりの乳児サンプルFと研究者エリーを中心にした十数年後の物語です。
こちらでは、やや"ごく普通の生活"を壊す方向の力が描かれてますが、その収束点として求められたのはやはり"ごく普通の生活"であります。
そして、その"ごく普通の生活”が、なんというか、血によって支えられているというような描写が出てきます。
実はこの辺、あまり理解できてない気がします。
ただ思ったのは、"ごく普通の生活"と言うものが嘘の固まりで出来た虚構である、意味の無いものであるという扱いをされがちだけれど、それを得ることそしてそれを続けることと言うのは、本当はとても得がたいとても価値の有るものなのだというような力強いメッセージが隠されているのでは?ということでした。

近代から現代にかけて、現実の虚構性を暴く晒すような物語が多く描かれました。
70年代から80年代、それらの物語の結果全てが無価値であるという考え方が一般化しシラケたムードや表面的な狂騒を描く物語が増えました。
90年代、それでも埋めることの出来ない空隙が巨大化し、"物語は死んだ"という言葉が真理のように語られました。これは同時に"虚構っぽい程真理に近い"という風潮を生み、新興宗教やトンデモ科学に真理を求める人が急増しました。
そして、今。
"ごく普通の生活"を表面的な嘘で固められた無価値なものであると看破することは、ごくごく簡単です。
ここ数十年の積み重ねで、否定する材料はいくらでも有るのです。
"ごく普通の生活"だけではありません。
ただ"生きる"と言うこと自体が簡単に否定されています。
「思っていれば夢は叶うよ。」という無責任にバラまかれている言葉は「なにか意味が無ければ、夢のような生き方でなければ、真実の生き方ではない。死ぬべきだ。」という呪いの言葉の裏返しです。
日本人はこの数十年で"本当に価値のあるもの"を片っ端から使い捨て、反故にしてきました。
使い捨てになる理由は、なんのことはない、"価値のあるもの"と"価値の無いもの"とを差別してきた結果だと思うのです。
今風の言い方をすれば"勝ち組"、"負け組"ですね。
価値の有る方が過剰に称賛されればされる程、価値の無い方に属してしまった人間の生は否定される。
もちろんこれは、古今東西無かったことの無い現象なわけでは有りますが、他の時代、他の地域では大抵、最低限のベースとして"生きること"は絶対の命題とされて来たと思います。
現代日本においてはそれは否定されてしまいました。
(イラク人質事件辺りが良い例ですね。)

閑話休題。
"ただ平凡に生きること"を否定する世の中に対するアンチテーゼ。
「ただ平凡に生きることこそ一番得難い、一番価値の有る事だ。」というテーマ。
大袈裟化も知れませんが、「サンプル・キティ」の底に流れるのはそのテーマであるような気がします。

作者は、主婦業をしながらその合間を使って漫画を描いていると聞いた記憶が有ります。
そうだとしたら、主婦業を大事にしているからこそ描くことが出来た物語なのではないでしょうか。

四巻、読みたいなー。

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