2004年4月21日水曜日

政府関係者

昼のニュースで、世界中に流れた銃やナイフで脅されている三邦人の映像は演技だったと本人達が告白したと、一部政府関係者が言っていたそうな。
 まあ、2chなどではとっくの昔から当然のように語られていた話ではあった。
 心情的には"げ、やっぱりヤラセか。騙されていたか。"とか思うところはあるけど、その辺の話は他の人もここぞとばかりに語っていると思うので置く。
 ここで味噌なのはやっぱり、政府関係者が語ったと言う点だろう。
 政府は、事件早々あの映像の元になる映像を手に入れていて、あれがヤラセであると判断していたとか。だから、いつも後手後手弱気な日本政府が、あくまで強気に「自衛隊は撤退しない。」と言い切り、三人を見殺しに出来たのだろう。
 政府が見殺しにしたがために、三人の家族達は言動をエスカレートさせ、その結果、日本中から総スカンを食うようになった。
 そして、三人が帰って来たこのタイミングで、その辺をリーク。
 演技であった点を掴んでいたのなら、今回の事件もっと早期にかつより穏便に解決することも出来たと思う。そうしなかったのは、結局、こうするのが政府にとって一番徳だったからでしょう。

 もちろん、三人がもし端っから世界中を騙すために彼らと協力して行動したとだとしたら、世界中から非難されるのは仕方ないだろう。でも、拘束された結果の行動なら、緊急避難行動の内と解釈すべきだと思う。
 迷惑かけたと言うけれど、政府がどれだけのことを彼らにしたのだろう。目に見えてなにもしていなかった、と言うか"なにもしない"という行動をとっていたわけだし。大多数の国民に直接的な被害を与えたわけでもない。(少なくとも、自衛隊が撤退したからと言って実害無いどころか、その分をNGOにでも回せばもっと効率良く、かつイメージ良くイラク国民のための活動が出来るだろう。だって、向うに取ってはやっぱり、アメリカの配下の軍人達が兵器片手に水を配ってるとしか見えんでしょう。)

 あの三人とその家族は、そういう意味で本当に可哀想だと思う。
 日本が軍国化するための重要な一歩のための贖罪の羊に選ばれてしまった。アメリカにとっての真珠湾のように。(そういう意味では、アメリカで三流作品と判断された"パールハーバー"が日本で大ヒットしたのは実に示唆的だ。)
 明日は我が身だろう。誰に取っても。
 戦後の世界史に、今の時代はどう書かれるのだろう。
 これは、本当の民主主義が生まれるための産みの苦しみなのだろうか。

2004年4月16日金曜日

非国民

武装集団に拘束されていた日本人三人が開放された。
無事に開放されたこと、本当によかったと思う。

今回の事件、結局は自業自得であった部分があるのは事実で、かつ、それは本人達も、また家族達も十二分にわかっていたと思う。
だからと言って、その命が粗末に扱われて良いと言うことにはならないし、ましてや、赤の他人が彼ら、彼女らを攻撃してよいという理由になるはずがない。

今回の事件中に、被害者家族を「不愉快だ」という理由で攻撃していた知り合いがいた。彼の中には無意識に"非国民"という言葉が横切っていたのではないかと思う。
私は"非国民"という言葉も、そういうレッテルを(無意識にでも)他人に貼り付ける人が嫌いです。大体、そんなこという人間の90%は国のことなんか考えちゃいない。ただ、他人を思う樣攻撃できる口実が欲しいだけなのだ。
ドイツがパリから撤退し、連合軍が入場したとき、ドイツの将校とつきあった女性は片っ端から迫害され、リンチやレイプにあったというが、ではそういった行為をした人間の中に、ドイツにへつらっていた人間もいたはずだ。
中国の文化大革命しかり、大東亜戦争時の日本しかり。
人を大事にする心の無い国家政策はファシズムだ。民主国家と言うレッテルが貼られていてもだ。
世界中で自由も民主主義も空洞化し、ファシズムとエゴイズムが充満しつつある。
恐い世界だ。

2004年4月9日金曜日

堕落論

坂口安吾の『堕落論』の中に、妻子持ちは特攻隊になかなか選ばれないという話が出ています。妻子から引き離すのが可哀想と言うわけではなくて、妻子に気が残って任務を完遂することが出来ないだろうからというのがその理由だったとか。
 それに対して安吾は妻子持ちとそうでない男性と、人間的にどんな違いがあるのだろうか、そういう考え方をして疑わないところに本当の進歩を阻む原因がある。堕落せよ。と論じている。
 "妻子持ち"と"懦弱"をイコールでつなぎ、やはり妻子持ちより独身の方がいざと言う時覚悟を決めやすいと考える考え方は、ある面では正解かも知れない。(現代ではそうでもないかも知れない。)
 しかし、では独身男性でも恋人があるひとは?あるいは、「妻子を守るためなら!」と考える既婚男性は?個別の事情を考えていけば、既婚か独身かと言う基準は、所詮レッテルに過ぎないことがすぐわかる。にもかかわらず、こういったレッテルによって物事を単純に済ませる思考法は、いまだに根強いのではないだろうか。
 安吾の言う堕落とは、ただ酒を飲んだり博打をしたり女を抱いたりというようなものではなく、むしろもっと宗教的なもののように感じる。
 私自身、昔から好きな言葉に浄土真宗の宗祖親鸞の「善人なおもて往生をとぐ。云わんや悪人をや。」と言う言葉がある。昔は単純にその逆転の発想的な部分が好きだったのだが、安吾の堕落とはこの言葉に象徴されるものではないかと思う。
 往生とは、阿弥陀如来に帰依することで、死後西方極楽浄土に生まれ変わらせていただくことを指す。善人が往生できるなら、悪人が往生できるのは当り前だというわけだ。それは、善人(と、自他ともに認める人)は、往生疑い無しだと思っているから阿弥陀さまに帰依する心が無意識に弱くなる。だが、悪人(と、言われる人)は自分が罪深いから往生は出来ないとあきらめ、あるいは恐れているから、そこから救っていたくださる阿弥陀さまへの帰依の心は、善人よりはるかに強い。というわけ。
 平和な生活、安逸な日常、あるいは普通の人生というものには、レッテルで単純化してある部分がたくさんあり、自分自身がそのレッテル文化に安心してしまえば、もうそこから新しく生まれることも進歩することもない。真の表現はけして生まれない。
 だから、日常を疑い、普通を疑い、平和を疑い、自らの安逸に流れる心を打ちすえ、壊すことが真の堕落で、ただダラダラと酒に溺れたってそれは真の堕落ではないのだ。

 大学生のとき、大学生協で買った『堕落論』ではまり、その後十年、自分の生活の指針にしてきたのだけど、二年くらい前に読み直して、もう自分がその暑さに耐えられなくなっていることに気がついて悲しくなって読むのを止めた。

 今朝起きたら急に、もう一度読み直したいと思った。
 世界は堕落している。でも真の堕落ではないようだ。レッテルを剥して新たなレッテルと貼って、ますます分厚いかさぶたになって真実が見えなくなっている。私の目にも知らぬ間に「もう既婚者だし」のレッテルが貼りついていたように思う。
 真の堕落をしよう。