2005年1月9日日曜日

「踊る大捜査線」 小さい正義とヒーローの矛盾

観ました。年末のTV版一挙放送と2日の映画版二作目。
おもしろかったー。
映像センスもいいけど、なにより話の作り方がうまい。あとは音楽の使い方。
「ケイゾク」や「TORICK]等に繋がる系譜の作品だと感じました。
ただ、個人的には映画版よりTV版の方がよかったと思います。

全体通して感じたのは、この作品に隠れているテーマの一つに「小さい正義」というものがあるということでした。
大上段に構えた絶対的な正義(ハリウッド映画などでよく出てくる、悪人を何千何万人殺しても味方を守れたらOKというやつ)に対しては、日本人は昔から割と思考停止になる傾向があります。
批判するのではなく考えられなくなる。
今の政治がそうですし、かつて太平洋戦争時の日本がそうでした。
これは、日本人が歴史的に、外のものを柔軟に取り入れることが出来たことともつながってます。
絶対的なものを自然以外信じていない。
絶対的な正義に対して絶対的な正義をぶつけることによって相対的な中立的な意見を導き出すといういわば大陸的な考え方は根付かず、絶対的な意見の絶対な部分を削って表面的な中立を導き出すいわゆる「玉虫色」な考え方が根底に息づいてます。
これは今では駄目駄目なものとして批判の対象になってますが、絶対的な正義をぶつける能力は育てられることも無く今にいたってます。
すがるべき正義が無く、結局はその場その時で正義っぽいものに付和雷同する。
何も進歩していないどころか後退している気さえします。
閑話休題。
そんな現代日本において語られること自体が少ない正義をより身近なレベルで語ろうと(それも軽くスタイリッシュに)した作品がこの「踊る大捜査線」シリーズだったように思います。
絶対不可侵な、聖職としての法の番人としての警察ではなく、等身大ででもほんのちょっとだけ正義であろうとして努力している人とその思いをくすぶらせていた人々の物語。
この辺の魅力がTV版ではよく出ていたように思います。
これが映画版になると、なんだか変な感じになる。
TV版や映画一作目の上層部と所轄との対立ばかりが前面に出され語られるべき物語が語られないまま終わってしまったような気がします。
映画版のメインテーマは「組織と構成員」でしょうか。これはこれで魅力あるテーマですが、「踊る大捜査線」でやる必要は無かったのではないでしょうか。
たぶん、困ったチャンの警察庁女管理官に比べ犯罪者たちが弱すぎたのですね。魅力が。
これは、警察内部の話をメインに据えすぎたためでしょう。
また、青島刑事があまりにヒーローになってしまったせいもあるでしょう。
ヒーローとは絶対の正義を背負う存在でもあります。
TV版からの小さな正義とはやや矛盾する存在になってしまいました。
TV版で活躍したのに左遷された青島刑事が、映画版では表彰されたのにそれをすっぽかして終わるという辺りがそれを象徴しています。(ように思います。)
庶民が望む小さな正義を体現するには、あまりに大げさな存在になってしまったのではないでしょうか。
(だから、次の映画では役者としてより庶民的な雰囲気の真下警部が主役になってしまったのではないでしょうか。)
人気のあるシリーズ作品ではありがちなことで、仕方の無いことなのかもしれませんが…。
(予断ですが週刊少年サンデーに連載されていた『め組の大悟』の場合、庶民の生活を守る存在としての消防士である大悟が成長していき、ついには国際的な救命の現場で活躍するまでになると言う話でしたが、この作品はそこで終わってます。結構心配したんですが…まあ余計なお世話なんですが…きっちり終わらせたところに好感が持てました。あれ、TVドラマ化されたけど今ひとつだった見たいで、ある意味よかった気がします。あれで人気になったら原作の良さを壊した上にしか話を作れなくなったでしょうから。)

HDDでTV版録画中にブレーカーが落ちて録画が中断されてしまい、四つしか話が撮れませんでした。残念。