2009年4月24日金曜日

『レッドクリフPart2 - 未来への最終決戦 -』

『レッドクリフpart2 - 未来への最終決戦 -』を見てきた。

三国志の物語の中でも一番の見せ場の一つ、“赤壁の戦い”を舞台にした一大スペクタクルで、見応えがあった。
Part1はTVで見たが、基礎知識があればPart2だけでも問題なし。
三国志好きの方はもちろん、戦争映画などに抵抗がない方なら、見て損はないと思う。

合戦描写のレベルは結構高い。

見ていてちょっと思ったのは「あっちこっちで爆発していたのは何だろう?」ということ。
この時代、すでに火薬はあったとの説を聞いた記憶はあるが、(漫画の『墨攻』では墨家が火薬を発明していたという話をやっていた。)映画の中では魚油を使った表現はあれど火薬を精製しているシーンはないから、あの爆発は火薬ではないと見て良い。
大量の油に火がついて…というのも考えられるが、油に火がつくと爆発するというのは近代の感覚で、粘度が高く揮発性が低かった昔の油の場合、爆発的な燃焼を起こすことはなかったのではないかと思う。

勘違いして欲しくないのは、だからダメだと言っているのではない。
この方が表現として正しいのかもしれないということだ。

私が上で書いたことはリアリティの話であるが、リアリティには、物理的なリアリティと表現的なリアリティがある。
物理的に正しいことが表現として正しいかどうかと言えば答えは否である。

個人的な感想でしかないが、あの合戦シーンは戦争の悲惨さと誇りをかけた戦いの崇高さを表現するには十分だったと感じている。(戦争が良いか悪いかは別問題。)

しかし、もしあの爆発的な凶暴な炎がなかったらどうだったろうか?
そこまでの感想は持たなかったろうと思う。

私達は日々様々な映像表現に接しているが、戦闘表現についてはどことなく、中世の戦い=騎士道、近代戦=悲惨といった感覚がある様に思う。昔は良かった的な感覚だが。
もし、この映画で物理的なリアリティを追求していたら、後者に近い物として見られただろうが、監督の意図はむしろ前者よりだったのではないか。三国志の物語としてのカタルシスと残酷な戦闘描写の融合。雄々しい誇りをかけた戦いと累々と広がる死人の山。
「勝者は誰もいない」という台詞にも、それが集約されている様に思う。
だとすれば、例え史実や物理的なリアリティを外れるとしても、表現のリアリティとして近代戦的な表現を採り入れたことは正解だったのだと思う。その方が私達にとって(物理的にはどうあれ)リアルに感じられるからだ。

が、しかし、否、だからこそ、最後のクライマックスシーンは個人的には、大群衆戦→個人の戦いへのスケールダウンな感じがあってちょっと勿体ないと思う。
主君や英雄だけの話に帰結してしまって良かったのだろうか?
しかし、それをやらなければ軸がぶれてしまうだろうとは思う。

それこそ、表現としてのリアリティと物理的なリアリティの問題。

最後の最後に諸葛亮と周瑜が仲良くお別れするのはどこか歌舞伎的(京劇でもそうなのかな?昔の歌舞伎は、日毎にお客さんを集めるため良い所で終わり、主役と敵役がストーリー関係なしに、「今日はこれまで!又いずれ」とお別れして終わる事が多かった。)だが、最後の主役級同士の戦いのシーンなども含め、歌舞伎・京劇的なパッケージを使うことで膨張する物語をまとめ切ったと言うことも出来る。

いずれにせよ、良い映画だったと思う。
興味のある方は是非。

それはそうと、中村獅童良い味出してたなぁ。