『ラスト・サムライ』を見る。
これは歴史好きな日本人や日本通な外国人にはけして作れない映画だ。
んで、たぶん世界の七割の人間の日本理解は、この辺が基準なんだろうな。
あのサムライ達が忍術使ってもたぶんOK。
2009年12月26日土曜日
2009年11月17日火曜日
映画版『魍魎の匣』を見た
映画版『魍魎の匣』を見た。
徹底した画面作りは、随所に美的なけれんみがあって好き。
役者も、原作のイメージから離れた人もいるけど、映画としてはありだと思う。
途中までは、原作を割と良い感じに換骨奪胎してるように感じながら、楽しく見ていたが、最期に近づくにつれてなんか無理を感じるようになった。
全体通して、原作の「連鎖的なボタンの掛け違いによる不条理感」(=魍魎感というべきか)は抑え気味にし、匣のイメージを強調している感じである。
それは一緒に収録されていた予告編でも特徴的。
思うに、匣のイメージは映像化しやすい、絵にして分かりやすいというのはあるだろう。
また一方、ボタンの掛け違いは、一つのシーンを見逃しただけで成立しにくくなる。
限られた枠の中で最大限の効果を出そうと考えた時、やむを得ない選択立ったろうと思う。
だが、その結果、最期の京極堂による憑き物落としのダイナミズムが弱まってしまったのは残念。
なんとなれば、憑き物落としとは、複雑連鎖的に絡み合った事象を、別な事象・別な視点を通すことで解体・再構築することに他ならない。
絡み合う事象が複雑であるほど、落ちた時のカタルシスは強烈となるが、今回の映画では、美馬坂に様々な暗部を集中させてしまったことで分かりやすくなった反面、掛け違いや、ズレは無くなってしまった。
この為、原作を読んでいた身には、クライマックスに向かうにつれ、騒がしさだけが目についてしまった。
とは言え、やや無理はあっても、美的な画面とハイスピードな展開と、原作に縛られない個性的な役者の組み合わせで、あの膨大な作品をまとめきったのはすごいと思う。
気のせいかもしれないが、役者たちが割と自由にやってるような印象を感じたシーンがあった。
演出なのか。
楽しくやってる感がある。
京極堂があたふたと「何で僕を引きずり込むんだ!」と訴えるシーンとか。
まあ原作破壊的だったりはするんですが、私は好きだ。
一部グロなシーンもあるが、そういうシーンが苦手じゃない方にはオススメ。
徹底した画面作りは、随所に美的なけれんみがあって好き。
役者も、原作のイメージから離れた人もいるけど、映画としてはありだと思う。
途中までは、原作を割と良い感じに換骨奪胎してるように感じながら、楽しく見ていたが、最期に近づくにつれてなんか無理を感じるようになった。
全体通して、原作の「連鎖的なボタンの掛け違いによる不条理感」(=魍魎感というべきか)は抑え気味にし、匣のイメージを強調している感じである。
それは一緒に収録されていた予告編でも特徴的。
思うに、匣のイメージは映像化しやすい、絵にして分かりやすいというのはあるだろう。
また一方、ボタンの掛け違いは、一つのシーンを見逃しただけで成立しにくくなる。
限られた枠の中で最大限の効果を出そうと考えた時、やむを得ない選択立ったろうと思う。
だが、その結果、最期の京極堂による憑き物落としのダイナミズムが弱まってしまったのは残念。
なんとなれば、憑き物落としとは、複雑連鎖的に絡み合った事象を、別な事象・別な視点を通すことで解体・再構築することに他ならない。
絡み合う事象が複雑であるほど、落ちた時のカタルシスは強烈となるが、今回の映画では、美馬坂に様々な暗部を集中させてしまったことで分かりやすくなった反面、掛け違いや、ズレは無くなってしまった。
この為、原作を読んでいた身には、クライマックスに向かうにつれ、騒がしさだけが目についてしまった。
とは言え、やや無理はあっても、美的な画面とハイスピードな展開と、原作に縛られない個性的な役者の組み合わせで、あの膨大な作品をまとめきったのはすごいと思う。
気のせいかもしれないが、役者たちが割と自由にやってるような印象を感じたシーンがあった。
演出なのか。
楽しくやってる感がある。
京極堂があたふたと「何で僕を引きずり込むんだ!」と訴えるシーンとか。
まあ原作破壊的だったりはするんですが、私は好きだ。
一部グロなシーンもあるが、そういうシーンが苦手じゃない方にはオススメ。
2009年11月14日土曜日
歯医者に行きました
実に5年ぶり位の歯医者。
先日、ずっと前に詰め物が取れた左側の下の奥歯の辺りが急にズキズキ痛み出し、それも歯自体と言うより顔の左半面が偏頭痛-眼痛-歯痛-首から肩の筋肉痛という状態になった。
どうも、放っておいた歯のせいじゃないかと思えたのだが、その日は行く暇が無く、とりあえず風邪っぽくもあったのでその日は頭痛薬を飲んでさっさと寝た。
翌日には左半面の痛みは落ち着き、結局風邪だったっぽいことが判明したが、気になるので久しぶりに歯医者に行くことにした。
実は、「歯が痛い」と言った時、妻が見つけてくれた歯医者に興味が沸いたことも理由の一つ。
そこは「薬で虫歯を治す歯医者さん」なのだ。
行ったのは早良区百道の谷口歯科医院(http://www3.ocn.ne.jp/~tdc28/)。
土曜日の午前、予約無し。
相当待たされると覚悟したが思ったほどでもなく名を呼ばれ治療台へ。
歯科衛生士の方に症状を話し見てもらう。
左側上下のレントゲン写真も撮る。
「取れた詰め物は白いものじゃ無かったですか?」
そうかもしれないが、良く覚えていない。
なんせ息子壱がまだ保育所の頃の話だ。
その後、口内から歯垢を採取、席を移し顕微鏡をセットしたPCの前に座らせられる。
歯科衛生士さんが操作すると、ディスプレイ一面に細菌達が「かもすぞー」の大合唱!
嘘です。
細菌は小さい点が漂うように動いている。点のもの、線のもの、くねくねしたもの。
くねくねしたものが歯周病菌なんだそうだ。
1画面に数匹程度なら問題ないということ。
歯周病がひどいとこの菌が画面に大量に現れるらしい。
その横に細長いものがグシャっとまとまったような固まり。これも所々にある。
これがカビ菌なんだそうだ。
カビ菌は食べ物や空気中を飛んで口内に入るので根絶はまず不可能だが、これも多いと細菌の快適な住処になり、口内環境悪化につながるので、少ないにこしたことはない。
しかし、まあ、私の場合はそれほど多い状態ではなかったらしい。
そういえば、「もやしもん4巻」の巻末で、オリゼー(麹カビ)とS.セレビシエ(酵母)とラクトコッカス・ラクチス(乳酸菌)が、漫画では同じ大きさだが現実にはものすごく大きさに差があるんだよ…という話があったけど、カビと細菌の大きさの差は、正にあれ。
その後、先生が来て検査。
結果、おそらく、歯ぎしりのせいじゃないか?とのこと。
歯ぎしりすると、歯の根元は骨に固定されてるので動かないが歯の先はそれなりに動く。
するとその力がちょうど根本の辺りに集中する。
その結果、その辺りの表面のエナメル質が壊れて知覚過敏状態になったのではないか。
また、下の歯の一部も欠けているが、外から何かぶつかるのは考えにくいので、堅いものを噛んだとかでないならこれも歯ぎしりの結果欠けたのではないか。
という。
なるほど。
歯ぎしりすると、歯の周りの筋肉も緊張状態を続けるし、その結果そちら側に偏頭痛や肩こりが発生するのもうなずける。
としたら、歯ぎしりの原因を探して直すことが、まあ、根元治療になるんだろうが、この辺になるとなんだか精神的なものが関係しているような気もする。
と、これは私の感想。
治療方針としては、歯のクリーニングを行い、知覚過敏が起きている所に知覚過敏の薬を付け、フッ素処理を行ってみましょうとのこと。
また歯科衛生士の方に代わって、まず、カビ菌なども殺す薬を歯全体に塗布。
次に歯の汚れや歯石を丁寧に削り落とす。
下の前歯にあったてっきり詰め物だと思っていたものが、実は歯石だったりしてびっくり。
左側奥の歯ぎしり地帯のエナメル質が壊れた場所に知覚過敏の薬を塗布。
あと、たぶんフッ素処理もしてくれたみたい。
所要時間は最初の検査含めて約1時間半くらいかな。
料金は2,000円ほどでした。
思っていたより口内環境は悪くなかったようだ。
てっきり、奥歯含めボロボロでいつ入れ歯になってもおかしくないと思っていたのだが。
一応、毎日朝・晩歯磨きしているのと、ここ数年はキシリトール入りのデンタルリンスを使っているのも良いのかも知れない。
結局、「薬による虫歯治療」を受けることは無さそうだけど、泳ぐ細菌達を見れたのは良かった。
しばらく通ってみるつもり。
先日、ずっと前に詰め物が取れた左側の下の奥歯の辺りが急にズキズキ痛み出し、それも歯自体と言うより顔の左半面が偏頭痛-眼痛-歯痛-首から肩の筋肉痛という状態になった。
どうも、放っておいた歯のせいじゃないかと思えたのだが、その日は行く暇が無く、とりあえず風邪っぽくもあったのでその日は頭痛薬を飲んでさっさと寝た。
翌日には左半面の痛みは落ち着き、結局風邪だったっぽいことが判明したが、気になるので久しぶりに歯医者に行くことにした。
実は、「歯が痛い」と言った時、妻が見つけてくれた歯医者に興味が沸いたことも理由の一つ。
そこは「薬で虫歯を治す歯医者さん」なのだ。
行ったのは早良区百道の谷口歯科医院(http://www3.ocn.ne.jp/~tdc28/)。
土曜日の午前、予約無し。
相当待たされると覚悟したが思ったほどでもなく名を呼ばれ治療台へ。
歯科衛生士の方に症状を話し見てもらう。
左側上下のレントゲン写真も撮る。
「取れた詰め物は白いものじゃ無かったですか?」
そうかもしれないが、良く覚えていない。
なんせ息子壱がまだ保育所の頃の話だ。
その後、口内から歯垢を採取、席を移し顕微鏡をセットしたPCの前に座らせられる。
歯科衛生士さんが操作すると、ディスプレイ一面に細菌達が「かもすぞー」の大合唱!
嘘です。
細菌は小さい点が漂うように動いている。点のもの、線のもの、くねくねしたもの。
くねくねしたものが歯周病菌なんだそうだ。
1画面に数匹程度なら問題ないということ。
歯周病がひどいとこの菌が画面に大量に現れるらしい。
その横に細長いものがグシャっとまとまったような固まり。これも所々にある。
これがカビ菌なんだそうだ。
カビ菌は食べ物や空気中を飛んで口内に入るので根絶はまず不可能だが、これも多いと細菌の快適な住処になり、口内環境悪化につながるので、少ないにこしたことはない。
しかし、まあ、私の場合はそれほど多い状態ではなかったらしい。
そういえば、「もやしもん4巻」の巻末で、オリゼー(麹カビ)とS.セレビシエ(酵母)とラクトコッカス・ラクチス(乳酸菌)が、漫画では同じ大きさだが現実にはものすごく大きさに差があるんだよ…という話があったけど、カビと細菌の大きさの差は、正にあれ。
その後、先生が来て検査。
結果、おそらく、歯ぎしりのせいじゃないか?とのこと。
歯ぎしりすると、歯の根元は骨に固定されてるので動かないが歯の先はそれなりに動く。
するとその力がちょうど根本の辺りに集中する。
その結果、その辺りの表面のエナメル質が壊れて知覚過敏状態になったのではないか。
また、下の歯の一部も欠けているが、外から何かぶつかるのは考えにくいので、堅いものを噛んだとかでないならこれも歯ぎしりの結果欠けたのではないか。
という。
なるほど。
歯ぎしりすると、歯の周りの筋肉も緊張状態を続けるし、その結果そちら側に偏頭痛や肩こりが発生するのもうなずける。
としたら、歯ぎしりの原因を探して直すことが、まあ、根元治療になるんだろうが、この辺になるとなんだか精神的なものが関係しているような気もする。
と、これは私の感想。
治療方針としては、歯のクリーニングを行い、知覚過敏が起きている所に知覚過敏の薬を付け、フッ素処理を行ってみましょうとのこと。
また歯科衛生士の方に代わって、まず、カビ菌なども殺す薬を歯全体に塗布。
次に歯の汚れや歯石を丁寧に削り落とす。
下の前歯にあったてっきり詰め物だと思っていたものが、実は歯石だったりしてびっくり。
左側奥の歯ぎしり地帯のエナメル質が壊れた場所に知覚過敏の薬を塗布。
あと、たぶんフッ素処理もしてくれたみたい。
所要時間は最初の検査含めて約1時間半くらいかな。
料金は2,000円ほどでした。
思っていたより口内環境は悪くなかったようだ。
てっきり、奥歯含めボロボロでいつ入れ歯になってもおかしくないと思っていたのだが。
一応、毎日朝・晩歯磨きしているのと、ここ数年はキシリトール入りのデンタルリンスを使っているのも良いのかも知れない。
結局、「薬による虫歯治療」を受けることは無さそうだけど、泳ぐ細菌達を見れたのは良かった。
しばらく通ってみるつもり。
2009年11月4日水曜日
『アキレスと亀』
『アキレスと亀』を見終わった。なんとも哀しい悲しい話だ。夢を追う人間の悲劇。「夢を追う」事自体が幸せであることに気が付けない人の悲劇だろう。
最後のシーンは、男のロマンと言うべき御都合主義なシーンだ。無かったら本当に救いが無いが。
『アキレスと亀』は実に北野監督らしい作品だ。絶対的な悪人はおらず、同時に、真綿で首を閉めるような優しさに満ちている。
良い映画だが、苦い。夢を追うことを諦めた人間は、見ると死にたくなる。
表現の良し悪しなど紙一重で、楽しければそれで良いと思えるか思えないかの差だ。
他人(世界、評価、成功、名声)とのギャップを気にする人間は、「アキレスと亀」のジレンマに囚われ、逃げられなくなる。亀との差ではなく、走ること自体を楽しんでいたらそうはならない。かもしれない。理論家は理論に縛られる。
ところで、中年期の主人公とそれ以前の存在感とにギャップが有りすぎな気がする。
妻が積極的に手伝い始める一歩手前の時間が必要だったのでは?敢えて抜いてるのかも知らないが。そのせいで最後のシーンが私には御都合主義に感じられたのだと思う。子供がいてあそこまで行くかね?
行くから映画なんだけどね。
たけしがやるから救いがある。
現実にはもっと悲惨な話がいくらでもありそうだ。
最後のシーンは、男のロマンと言うべき御都合主義なシーンだ。無かったら本当に救いが無いが。
『アキレスと亀』は実に北野監督らしい作品だ。絶対的な悪人はおらず、同時に、真綿で首を閉めるような優しさに満ちている。
良い映画だが、苦い。夢を追うことを諦めた人間は、見ると死にたくなる。
表現の良し悪しなど紙一重で、楽しければそれで良いと思えるか思えないかの差だ。
他人(世界、評価、成功、名声)とのギャップを気にする人間は、「アキレスと亀」のジレンマに囚われ、逃げられなくなる。亀との差ではなく、走ること自体を楽しんでいたらそうはならない。かもしれない。理論家は理論に縛られる。
ところで、中年期の主人公とそれ以前の存在感とにギャップが有りすぎな気がする。
妻が積極的に手伝い始める一歩手前の時間が必要だったのでは?敢えて抜いてるのかも知らないが。そのせいで最後のシーンが私には御都合主義に感じられたのだと思う。子供がいてあそこまで行くかね?
行くから映画なんだけどね。
たけしがやるから救いがある。
現実にはもっと悲惨な話がいくらでもありそうだ。
2009年10月14日水曜日
Twimp改造
と言ってもたいしたことじゃなく、内容的にも未完成。
だが、一応投稿を削除できるようになったので記録。
53行目付近で$deluriに削除のためのURLを登録
240行目付近で投稿表示部分で、自分の投稿なら削除用のボタンを表示(投稿のIDが自分のIDと一致したらフォームを表示。フォームのactionは$deluri+投稿のID+.xml)するソースを追加。
これで、タイムライン上の自分の記事にdelボタンが出てくる。
これをクリックするとBASIC認証があり(これは、twimpをセットしているディレクトリにBASIC認証を設定しているため)、その後削除した記事の情報を羅列したxmlが表示される。
私の携帯の場合は「対応していないファイルです」と表示がでてエラーっぽくなる。
でも、改めてタイムラインを表示させると記事は無事削除されていた。
あとは、削除後のxmlの処理をスマートにして、出来れば最初にログインしていればBASIC認証をしなくても削除できるように出来ればベストなのだが。
だが、一応投稿を削除できるようになったので記録。
53行目付近で$deluriに削除のためのURLを登録
$deluri = "http://twitter.com/statuses/destroy/";
240行目付近で投稿表示部分で、自分の投稿なら削除用のボタンを表示(投稿のIDが自分のIDと一致したらフォームを表示。フォームのactionは$deluri+投稿のID+.xml)するソースを追加。
# メッセージ削除
if( $name eq $user ) {
print "<form method="POST" action="$deluri$id.xml"><input type=submit value="del"></form>n";
}
これで、タイムライン上の自分の記事にdelボタンが出てくる。
これをクリックするとBASIC認証があり(これは、twimpをセットしているディレクトリにBASIC認証を設定しているため)、その後削除した記事の情報を羅列したxmlが表示される。
私の携帯の場合は「対応していないファイルです」と表示がでてエラーっぽくなる。
でも、改めてタイムラインを表示させると記事は無事削除されていた。
あとは、削除後のxmlの処理をスマートにして、出来れば最初にログインしていればBASIC認証をしなくても削除できるように出来ればベストなのだが。
2009年9月20日日曜日
『クラウド化する世界』ニコラス・G・カー:著 読了
読み始めて、以前読んで感銘を受けた『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』の作者であることを思い出した。
前著は、ITは最早社会全体に当たり前に存在するシステムの一つであり、導入したからと言って、即 他企業に対してアドバンテージを得ることができる道具ではすでにないこと、かつて電気が使われ出した頃、あるいはメインフレームなどが使われ出した当時の航空会社の歴史的事例などから説明し、“ITを入れれば儲かる!”などという希望的観測による幻想ではなく、ちょうど電気家電を導入する時のように、コストパフォーマンスを十分に検討した上で必要な物を必要なだけ導入すべき…という内容だった。
今回読んだ『クラウド化する世界』。
実は昨今ビジネス書などで「Googleのサービスなどを効率よく使おう」的な「クラウド・コンピューティング」が話題になっているらしく、作者名を見ず、この本もその手の本だと思って手に取ったのだが、内容は全く違った。
以下、ネタばれ有り。
この本が語るのは、「クラウド・コンピューティング」と呼ばれる物の本質である。
技術の進化は、人々の生活をより楽で効率よいものに変えてくれたが、それは、一人一人の幸せを追求するためではなく、むしろ、企業の利益追求や政府の治安維持・統治強化により役立てられてきた。
インターネットが生み出した情報空間は、インターネットの興隆期によく言われた「何者にも束縛されない自由な世界」であると良く言われるが、それは見せかけだけであり、実際は、ネットワークの発達と情報処理技術の発達は、政治や経済を支配してきた者が、よりその支配をしやすくするための力となり、むしろ、インターネットがない時代よりも私達を容易に束縛できるようになっていく。それを電気が巡った歴史などを引き合いに説明している。
人類の歴史で、主要な動力は長く人間or家畜の力だけだった。
産業革命の前、アメリカでは水車を制する者が経済を制した、が、数年後、水車は錆びて朽ち果て、電気とモーターがその代わりを担った。機械的により単純に組むことが出来る電気とモーターは、工場の配置を自由化し、効率追求を実現し、結果、それまでは熟練工の存在が必要だった製造の現場を、むしろ生産ラインの一部として単純作業を効率よく進められる人間が求められるようになった。
機械の身体(@銀河鉄道999)のような存在が、プロフェッショナルにとって変わったのは、まさにこの電気技術の発達によるのだ。
また、電灯の発明により、人は夜に生活するのが当たり前となったが、これが、生活の隅々における労働時間の延長を産み、人々の生活のスタイルをがらっと変えてしまった。
同じように、情報技術の発達は情報発信のリスクやコストをどんどん下げ、かつては本や新聞、テレビやラジオなど、マスコミュニケーション媒体を通すか、個人としては膨大なコストやリスクを背負わなくては発信出来なかったような情報が、ほとんどコストをかけなくても発信出来るようになった。
最早、情報発信のために既存のメディアは必要なく、また、情報技術のウィザードも必要ない。
WEB2.0なんて言う言葉がどこか理想主義的な意味合いで用いられているのは、この情報技術の発展により、既存の政府、企業が主体ではなく、情報の受け手が同時に送り手になれるという状況が、絶対的な自由を生み出すものと無邪気に空想されたからである。
正直、私もそう考えていた。
だが、発達したこのネットワークとデータベースは、企業や政府が、個人の思想や嗜好、生活についての情報を集めることを容易にしている。ただ、それらの膨大な情報を整理し関連づけし、意味のある情報のまとまりを作り上げることが出来る検索技術やデータマイニング技術を活用するだけでいいのだ。しかもそれらの技術は、クラウド化によってより低コストで導入することが可能となっているのだ。
電気技術が個人を生産の現場のパーツにしたように、情報技術は個人を効率的な情報収集の素材として、効率的な消費者として、見えないWEBの糸で絡め取っていくだろう。
最終章では、やや良くあるSFの人工知能者のような未来が語られている。
一人一人の脳が情報端末を通して、クラウド化したワールドワイドコンピュータと直結してる世界。
個人の経験や思考はワールドワイドコンピュータに全て蓄積・マイニングされ、欲しい情報は全てワールドワイドコンピュータで手に入れることが出来る世界。
馬鹿な、と言いたいけど、こうなっていくんだろうな、とも思う。
まるで星新一の『声の網』やジョージ・オーウェルの『1984』、京極夏彦の『ルー・ガ・ルー』の世界だ。
個人でそれに反発しようとしても無理だろうし、実際、こんな文章をブログに書いてる時点で、まさにその渦中にありそれを促進していると言えるわけで、あまり意味があることとは思えない。
たぶん、これが当たり前になった世界では、幸せの形も今とはだいぶ違ったものになるだろうし、「自由」という言葉が表す意味も全く変わっていくだろう。
そんな世界にいて、生きる意味があるのか?
でもよく考えてみると、それは今も一緒で、多分過去も一緒だったように思う。
大政翼賛会と軍部が支配したと言うかつての日本やナチスが支配したと言うドイツでも人は生きていた。
自由の国と言われているアメリカが、本当に自由で平等であった試しはない。
本当の自由があるとしたら、個人の頭の中だけのことで、束縛される人間は、情報技術や科学技術の無い世界でも、何かに束縛されながら生きるのだ。
この世界に人の身を以て生きると言うこと自体が本来束縛なのだ。
本当の意味でその束縛を脱するには、自分自身を構成するその自我という束縛からほどけることなくしてはあり得ないのだ。
願わくば、その世界に生きるであろう息子達や息子達の子供達が、幸せを感じながら生きていけることを。
ともあれ、安易なビジネス書で語られる「クラウド・コンピューティング」とは全く違う、おもしろさに溢れる本。
一読をオススメしたい。
前著は、ITは最早社会全体に当たり前に存在するシステムの一つであり、導入したからと言って、即 他企業に対してアドバンテージを得ることができる道具ではすでにないこと、かつて電気が使われ出した頃、あるいはメインフレームなどが使われ出した当時の航空会社の歴史的事例などから説明し、“ITを入れれば儲かる!”などという希望的観測による幻想ではなく、ちょうど電気家電を導入する時のように、コストパフォーマンスを十分に検討した上で必要な物を必要なだけ導入すべき…という内容だった。
今回読んだ『クラウド化する世界』。
実は昨今ビジネス書などで「Googleのサービスなどを効率よく使おう」的な「クラウド・コンピューティング」が話題になっているらしく、作者名を見ず、この本もその手の本だと思って手に取ったのだが、内容は全く違った。
以下、ネタばれ有り。
この本が語るのは、「クラウド・コンピューティング」と呼ばれる物の本質である。
技術の進化は、人々の生活をより楽で効率よいものに変えてくれたが、それは、一人一人の幸せを追求するためではなく、むしろ、企業の利益追求や政府の治安維持・統治強化により役立てられてきた。
インターネットが生み出した情報空間は、インターネットの興隆期によく言われた「何者にも束縛されない自由な世界」であると良く言われるが、それは見せかけだけであり、実際は、ネットワークの発達と情報処理技術の発達は、政治や経済を支配してきた者が、よりその支配をしやすくするための力となり、むしろ、インターネットがない時代よりも私達を容易に束縛できるようになっていく。それを電気が巡った歴史などを引き合いに説明している。
人類の歴史で、主要な動力は長く人間or家畜の力だけだった。
産業革命の前、アメリカでは水車を制する者が経済を制した、が、数年後、水車は錆びて朽ち果て、電気とモーターがその代わりを担った。機械的により単純に組むことが出来る電気とモーターは、工場の配置を自由化し、効率追求を実現し、結果、それまでは熟練工の存在が必要だった製造の現場を、むしろ生産ラインの一部として単純作業を効率よく進められる人間が求められるようになった。
機械の身体(@銀河鉄道999)のような存在が、プロフェッショナルにとって変わったのは、まさにこの電気技術の発達によるのだ。
また、電灯の発明により、人は夜に生活するのが当たり前となったが、これが、生活の隅々における労働時間の延長を産み、人々の生活のスタイルをがらっと変えてしまった。
同じように、情報技術の発達は情報発信のリスクやコストをどんどん下げ、かつては本や新聞、テレビやラジオなど、マスコミュニケーション媒体を通すか、個人としては膨大なコストやリスクを背負わなくては発信出来なかったような情報が、ほとんどコストをかけなくても発信出来るようになった。
最早、情報発信のために既存のメディアは必要なく、また、情報技術のウィザードも必要ない。
WEB2.0なんて言う言葉がどこか理想主義的な意味合いで用いられているのは、この情報技術の発展により、既存の政府、企業が主体ではなく、情報の受け手が同時に送り手になれるという状況が、絶対的な自由を生み出すものと無邪気に空想されたからである。
正直、私もそう考えていた。
だが、発達したこのネットワークとデータベースは、企業や政府が、個人の思想や嗜好、生活についての情報を集めることを容易にしている。ただ、それらの膨大な情報を整理し関連づけし、意味のある情報のまとまりを作り上げることが出来る検索技術やデータマイニング技術を活用するだけでいいのだ。しかもそれらの技術は、クラウド化によってより低コストで導入することが可能となっているのだ。
電気技術が個人を生産の現場のパーツにしたように、情報技術は個人を効率的な情報収集の素材として、効率的な消費者として、見えないWEBの糸で絡め取っていくだろう。
最終章では、やや良くあるSFの人工知能者のような未来が語られている。
一人一人の脳が情報端末を通して、クラウド化したワールドワイドコンピュータと直結してる世界。
個人の経験や思考はワールドワイドコンピュータに全て蓄積・マイニングされ、欲しい情報は全てワールドワイドコンピュータで手に入れることが出来る世界。
馬鹿な、と言いたいけど、こうなっていくんだろうな、とも思う。
まるで星新一の『声の網』やジョージ・オーウェルの『1984』、京極夏彦の『ルー・ガ・ルー』の世界だ。
個人でそれに反発しようとしても無理だろうし、実際、こんな文章をブログに書いてる時点で、まさにその渦中にありそれを促進していると言えるわけで、あまり意味があることとは思えない。
たぶん、これが当たり前になった世界では、幸せの形も今とはだいぶ違ったものになるだろうし、「自由」という言葉が表す意味も全く変わっていくだろう。
そんな世界にいて、生きる意味があるのか?
でもよく考えてみると、それは今も一緒で、多分過去も一緒だったように思う。
大政翼賛会と軍部が支配したと言うかつての日本やナチスが支配したと言うドイツでも人は生きていた。
自由の国と言われているアメリカが、本当に自由で平等であった試しはない。
本当の自由があるとしたら、個人の頭の中だけのことで、束縛される人間は、情報技術や科学技術の無い世界でも、何かに束縛されながら生きるのだ。
この世界に人の身を以て生きると言うこと自体が本来束縛なのだ。
本当の意味でその束縛を脱するには、自分自身を構成するその自我という束縛からほどけることなくしてはあり得ないのだ。
願わくば、その世界に生きるであろう息子達や息子達の子供達が、幸せを感じながら生きていけることを。
ともあれ、安易なビジネス書で語られる「クラウド・コンピューティング」とは全く違う、おもしろさに溢れる本。
一読をオススメしたい。
2009年8月5日水曜日
東野圭吾『容疑者χの献身』
を病床にて読んだ。
テレビドラマにもなったガリレオ先生の話だが、中盤過ぎるまで、全て見えてるはずなのにモヤモヤしているのが、最後にピシッとシンプルで極めて残酷な絵を結ぶ展開は秀逸。
例えて言うなら、グスコーブドリの話の最後で、島に残ったブドリが後ろを向いたら博士とかネリとかが残ってたみたいな、…うん違う。もっとこうどうしようもない、でもパンドラ箱の底の希望みたいなのは残ってるみたいな終わりだった。
ガリレオ先生大活躍の巻を読みたい方にはお勧めしない。
なんとなれば、この本の中で一番わがままで残酷なのはガリレオ先生だから。
ホームズ先生だったら
「僕の親友の誇りを掛けた闘いを邪魔するほど、僕は傲慢ではないよ。」
「じゃあほっとくのかい?ホームズ。」
「残念なことだが、しかたあるまい。悲しいことだねワトソン君。優れ過ぎた頭脳を持っていても、この愚かな世の中では、その才能を本当に活かしきることができないのだからね。今夜は長く別れる友のためバイオリンの新譜でも演奏しながら時を過ごそう。」
とか言って推理は披露するけど無かったことにしそうな気がする。
時代も違うし、国も違うけどね。
あ゛、あと攻殻のバトー風に
「あいつは行っちまったのさ。膨大な数式世界へ。一輪の思い出を持ってな。」
とか言う手もあったんじゃないか。無いですか無いですね。
ガリレオの他の本も読みたくなってきた。
テレビドラマにもなったガリレオ先生の話だが、中盤過ぎるまで、全て見えてるはずなのにモヤモヤしているのが、最後にピシッとシンプルで極めて残酷な絵を結ぶ展開は秀逸。
例えて言うなら、グスコーブドリの話の最後で、島に残ったブドリが後ろを向いたら博士とかネリとかが残ってたみたいな、…うん違う。もっとこうどうしようもない、でもパンドラ箱の底の希望みたいなのは残ってるみたいな終わりだった。
ガリレオ先生大活躍の巻を読みたい方にはお勧めしない。
なんとなれば、この本の中で一番わがままで残酷なのはガリレオ先生だから。
ホームズ先生だったら
「僕の親友の誇りを掛けた闘いを邪魔するほど、僕は傲慢ではないよ。」
「じゃあほっとくのかい?ホームズ。」
「残念なことだが、しかたあるまい。悲しいことだねワトソン君。優れ過ぎた頭脳を持っていても、この愚かな世の中では、その才能を本当に活かしきることができないのだからね。今夜は長く別れる友のためバイオリンの新譜でも演奏しながら時を過ごそう。」
とか言って推理は披露するけど無かったことにしそうな気がする。
時代も違うし、国も違うけどね。
あ゛、あと攻殻のバトー風に
「あいつは行っちまったのさ。膨大な数式世界へ。一輪の思い出を持ってな。」
とか言う手もあったんじゃないか。無いですか無いですね。
ガリレオの他の本も読みたくなってきた。
2009年7月18日土曜日
「スカイクロラ」の感想
大分前に読み終わって、何度か読み直し、感想も一度書いたのだが、改めて書いてみようと思う。
と言っても、結局、映画版との比較に終始するのだが。
原作を通して感じるのは、翼を失った天使の物語というイメージで、それに対して映画のテーマは卒業なのだ。
もちろん、勝手なイメージ。
「終わらない話を終わらせる」という点は共通なのだが、視点が違う。
原作が「天使でいたかった子等の視点による堕落と、堕落を逃れるための昇天」を語っているのに対し、映画は「卒業した者の視点によるモラトリアムからの卒業」に重心が置かれている。
感覚的には、原作の語る子供観には納得する部分も強い。
しかし、それをヒロインの死で無理矢理終わらせた感じも正直ある。
それは、続く方が(堕落していくことの方が)残酷で救いが無いと私が感じているからかもしれない。
「スカイクロラ」以前の押井作品は、「世界を停滞させようとする者とそれを妨害する者の戦い」をテーマにしている事が多かった。
その際、従来は、ややノスタルジー的とは言え、「停滞させる者」を(麿子や、ケルベロスなど。)魅力的に描くことが多かった。
またそれゆえに、「スカイクロラ」が琴線に触れたんだろう。
しかし、原作の持つ「そのままを求め叶わぬ哀しさ」を俎上に載せた時、押井自身の「停滞させる者」よりも「それを妨害する者」への要素が強くなったのではないだろうか。
それが上述したイメージの違いになったのではないだろうか。
と
そんな気がした。
と言っても、結局、映画版との比較に終始するのだが。
原作を通して感じるのは、翼を失った天使の物語というイメージで、それに対して映画のテーマは卒業なのだ。
もちろん、勝手なイメージ。
「終わらない話を終わらせる」という点は共通なのだが、視点が違う。
原作が「天使でいたかった子等の視点による堕落と、堕落を逃れるための昇天」を語っているのに対し、映画は「卒業した者の視点によるモラトリアムからの卒業」に重心が置かれている。
感覚的には、原作の語る子供観には納得する部分も強い。
しかし、それをヒロインの死で無理矢理終わらせた感じも正直ある。
それは、続く方が(堕落していくことの方が)残酷で救いが無いと私が感じているからかもしれない。
「スカイクロラ」以前の押井作品は、「世界を停滞させようとする者とそれを妨害する者の戦い」をテーマにしている事が多かった。
その際、従来は、ややノスタルジー的とは言え、「停滞させる者」を(麿子や、ケルベロスなど。)魅力的に描くことが多かった。
またそれゆえに、「スカイクロラ」が琴線に触れたんだろう。
しかし、原作の持つ「そのままを求め叶わぬ哀しさ」を俎上に載せた時、押井自身の「停滞させる者」よりも「それを妨害する者」への要素が強くなったのではないだろうか。
それが上述したイメージの違いになったのではないだろうか。
と
そんな気がした。
2009年7月2日木曜日
ユニットバスの入り方
会社の寮はユニットバス。
しかもサーモスタットが調子悪く、どう調整しても、熱湯→水→熱湯を繰り返し、その間の数秒間しかシャワーがまともに使えない。
つまり、
・お風呂に浸かると身体が洗えない。
・身体を洗うには使い難いシャワーで悪戦苦闘しなければならない。
・両方やると時間がかかる。
というジレンマがある。
それを妻に言ったら一言。
「溜めて洗ったら?」
そこで、最近編み出してやっているのがこれ。
・まずお湯を溜め、湯船に入る。
・頭を濡らし、身体が暖まるまで浸かる。
・暖まったら頭をシャンプーで、顔をボディソープで洗う。
・湯船のお湯で泡を洗い落とす。
・立ち上がって身体をボディソープで洗う。
・湯船に浸かって泡を洗い落とす。
・お湯を抜きながら最後にシャワーで全身と湯船の泡を流す。
・終わり
妻が言っていたのとは違うかもしれない。いや、たぶん違う。
でもこの入り方なら、
・シャワー使うストレスな時間が極めて短い。
・お湯に浸かるのと身体を洗うのを両立できて、しかも時間短縮できる。
・狭いユニットバスであまり動かないで比較的のびのび過ごせる。
特に最後のは意図していなかった点だが、私みたいに図体がでかいと結構嬉しい。
「溜めたお湯に泡を落とす。」と言うのは日本では基本的にタブーなので最初ちょっと躊躇したが、考えてみると海外には泡風呂なんかもあるわけだから。
これで入浴剤入れたら完璧。だと思う。
しかもサーモスタットが調子悪く、どう調整しても、熱湯→水→熱湯を繰り返し、その間の数秒間しかシャワーがまともに使えない。
つまり、
・お風呂に浸かると身体が洗えない。
・身体を洗うには使い難いシャワーで悪戦苦闘しなければならない。
・両方やると時間がかかる。
というジレンマがある。
それを妻に言ったら一言。
「溜めて洗ったら?」
そこで、最近編み出してやっているのがこれ。
・まずお湯を溜め、湯船に入る。
・頭を濡らし、身体が暖まるまで浸かる。
・暖まったら頭をシャンプーで、顔をボディソープで洗う。
・湯船のお湯で泡を洗い落とす。
・立ち上がって身体をボディソープで洗う。
・湯船に浸かって泡を洗い落とす。
・お湯を抜きながら最後にシャワーで全身と湯船の泡を流す。
・終わり
妻が言っていたのとは違うかもしれない。いや、たぶん違う。
でもこの入り方なら、
・シャワー使うストレスな時間が極めて短い。
・お湯に浸かるのと身体を洗うのを両立できて、しかも時間短縮できる。
・狭いユニットバスであまり動かないで比較的のびのび過ごせる。
特に最後のは意図していなかった点だが、私みたいに図体がでかいと結構嬉しい。
「溜めたお湯に泡を落とす。」と言うのは日本では基本的にタブーなので最初ちょっと躊躇したが、考えてみると海外には泡風呂なんかもあるわけだから。
これで入浴剤入れたら完璧。だと思う。
2009年6月19日金曜日
嘘つき日記
妻が私が職場で書いているブログを評して「お父ちゃんじゃないみたい。」と言っていた。
書いていてもそう思う。
書いている時は、頭の中のキャラクタを変えて書いている。
ちょうど、台本を書いててそのシーンそのシーンでキャラクタを変えてるのに近い。
比較的ポジティブで地域や職場を愛し、その情報発信を楽しんでいる人。
現実にそういう人には会ったことがない。
どこのIT担当も疲れ切ってグチグチ言っている人が多い。
でも、ネット上を見ているとそういう感じの文章を書く人達を時々見かける。
アフィリエイターの方々やコンサルタントの方々だ。
そういう方達が各文章は、とてもポジティブで一点の曇もない青空の様な文章だが、どうにも食い足りずどこか怪しげで裏がありそうな文章の場合が多い。
(裏がありそうと感じるのは私が腹黒い人間だからだろうけど。)
意図的に、欠点やマイナスの部分を、少しでもプラスに転換しようと試行錯誤した結果が、どこか怪しげな印象につながるのだろう。
ポジティブさには裏にネガティブさが隠れており、光が強い程影も濃くなる…というのが現実的な感覚で、ネガティブになるはずの部分が明るいと「怪しい」と感じるのだ。
しかし、実際問題この「怪しい」と感じるポイントは一人一人で微妙に違う。
例えば、古い旅館を「鄙びた」と感じるか「古い」と感じるかは人それぞれ。
それも、「鄙びた」と感じる場合にもチェックポイントは人によって様々で、「木造なら“鄙びた”でモルタルは“古い”」と感じる人もいれば「タイル張りのお風呂は“鄙びた”だが大理石は“古い”」などなど。
“数寄もの”の世界なども、極めて感覚的なもの。解釈は人によって大きく変わる。
さらに言えば、同じオブジェでも見方を変えて面白い所を見つけるのが“数寄もの”の世界と言えるし。
つまり、100%誰もが「怪しい」と感じるものも、「怪しくない」と感じるものも存在しない。
「比較的怪しい」、「比較的怪しくない」ものがあるだけだ。
だとしたら、私が職場で書いているブログはどうなのだろうか。
なるほど、私じゃない人間が書いたような文章にはなっているが嘘を書いていない。
また、職場や周辺地の魅力を紹介するのが目的の商用ブログなんだから(私の徒然なるまま書き散らすブログじゃないんだから)その目的から考えて、職場や周囲の人々がマイナスと考えるものに光を当てておもしろさを見つけ、プラスと考えるものは益々その良さを表現する事が出来ていればOKで、それは比較的出来ていると思う。
文章がやや冗長なのは否めないが。
文章自体は嘘つきではない。
感覚的に嘘をついているため、時々自分でも気持ちが悪くなるが、飯を食うため、妻と子供を養うためだと考えて書いている。
と、自分では考えている。
自分が書きたい文章だけを書ける、それで食える人間になれたら本当は一番良いんだろうな。
そういう文章(書きたいと思ったものに命をかけた様な文章)でないと価値が無いなどと宣う昔の私みたいな人間から見たら、私の職場で書いてるブログは「嘘つき日記」なのだろうが、
畢竟、サービス業とは嘘つき業だ。
と心の中でつぶやいて、今日も仕事に勤しもうと思う。
書いていてもそう思う。
書いている時は、頭の中のキャラクタを変えて書いている。
ちょうど、台本を書いててそのシーンそのシーンでキャラクタを変えてるのに近い。
比較的ポジティブで地域や職場を愛し、その情報発信を楽しんでいる人。
現実にそういう人には会ったことがない。
どこのIT担当も疲れ切ってグチグチ言っている人が多い。
でも、ネット上を見ているとそういう感じの文章を書く人達を時々見かける。
アフィリエイターの方々やコンサルタントの方々だ。
そういう方達が各文章は、とてもポジティブで一点の曇もない青空の様な文章だが、どうにも食い足りずどこか怪しげで裏がありそうな文章の場合が多い。
(裏がありそうと感じるのは私が腹黒い人間だからだろうけど。)
意図的に、欠点やマイナスの部分を、少しでもプラスに転換しようと試行錯誤した結果が、どこか怪しげな印象につながるのだろう。
ポジティブさには裏にネガティブさが隠れており、光が強い程影も濃くなる…というのが現実的な感覚で、ネガティブになるはずの部分が明るいと「怪しい」と感じるのだ。
しかし、実際問題この「怪しい」と感じるポイントは一人一人で微妙に違う。
例えば、古い旅館を「鄙びた」と感じるか「古い」と感じるかは人それぞれ。
それも、「鄙びた」と感じる場合にもチェックポイントは人によって様々で、「木造なら“鄙びた”でモルタルは“古い”」と感じる人もいれば「タイル張りのお風呂は“鄙びた”だが大理石は“古い”」などなど。
“数寄もの”の世界なども、極めて感覚的なもの。解釈は人によって大きく変わる。
さらに言えば、同じオブジェでも見方を変えて面白い所を見つけるのが“数寄もの”の世界と言えるし。
つまり、100%誰もが「怪しい」と感じるものも、「怪しくない」と感じるものも存在しない。
「比較的怪しい」、「比較的怪しくない」ものがあるだけだ。
だとしたら、私が職場で書いているブログはどうなのだろうか。
なるほど、私じゃない人間が書いたような文章にはなっているが嘘を書いていない。
また、職場や周辺地の魅力を紹介するのが目的の商用ブログなんだから(私の徒然なるまま書き散らすブログじゃないんだから)その目的から考えて、職場や周囲の人々がマイナスと考えるものに光を当てておもしろさを見つけ、プラスと考えるものは益々その良さを表現する事が出来ていればOKで、それは比較的出来ていると思う。
文章がやや冗長なのは否めないが。
文章自体は嘘つきではない。
感覚的に嘘をついているため、時々自分でも気持ちが悪くなるが、飯を食うため、妻と子供を養うためだと考えて書いている。
と、自分では考えている。
自分が書きたい文章だけを書ける、それで食える人間になれたら本当は一番良いんだろうな。
そういう文章(書きたいと思ったものに命をかけた様な文章)でないと価値が無いなどと宣う昔の私みたいな人間から見たら、私の職場で書いてるブログは「嘘つき日記」なのだろうが、
畢竟、サービス業とは嘘つき業だ。
と心の中でつぶやいて、今日も仕事に勤しもうと思う。
2009年6月4日木曜日
『墨子』
すみこではない。
念のため。
図書館で借りた。いわゆる注釈本を読了。
『墨攻』(酒見賢一 著)とセットで読むのが吉。
また読みたいな。時間があったら。
墨子の考え方は、個人的には孔子の言葉よりしっくり来る。
しかし、いわゆる墨家集団のイデオロギー的な部分は嫌いだ。
誰のために戦い、誰のために死ぬのか。
少なくとも圧政者のためじゃないはずだ。
キリストその人と教会の関係のようなものを感じる。
集団が自己保存に傾くと、創始者は人ではなくシンボルとなり、生きた言葉はフィルタで濾されて力を失う。
大事なのは、崇め奉ることではなく、我が心と行いを彼の人のごとくにすることだ。
彼の人の考えるように考え、彼の人が行うように行う。
まあそれが難しいのだが
不肖の者には。
念のため。
図書館で借りた。いわゆる注釈本を読了。
『墨攻』(酒見賢一 著)とセットで読むのが吉。
また読みたいな。時間があったら。
墨子の考え方は、個人的には孔子の言葉よりしっくり来る。
しかし、いわゆる墨家集団のイデオロギー的な部分は嫌いだ。
誰のために戦い、誰のために死ぬのか。
少なくとも圧政者のためじゃないはずだ。
キリストその人と教会の関係のようなものを感じる。
集団が自己保存に傾くと、創始者は人ではなくシンボルとなり、生きた言葉はフィルタで濾されて力を失う。
大事なのは、崇め奉ることではなく、我が心と行いを彼の人のごとくにすることだ。
彼の人の考えるように考え、彼の人が行うように行う。
まあそれが難しいのだが
不肖の者には。
2009年4月24日金曜日
『レッドクリフPart2 - 未来への最終決戦 -』
『レッドクリフpart2 - 未来への最終決戦 -』を見てきた。
三国志の物語の中でも一番の見せ場の一つ、“赤壁の戦い”を舞台にした一大スペクタクルで、見応えがあった。
Part1はTVで見たが、基礎知識があればPart2だけでも問題なし。
三国志好きの方はもちろん、戦争映画などに抵抗がない方なら、見て損はないと思う。
合戦描写のレベルは結構高い。
見ていてちょっと思ったのは「あっちこっちで爆発していたのは何だろう?」ということ。
この時代、すでに火薬はあったとの説を聞いた記憶はあるが、(漫画の『墨攻』では墨家が火薬を発明していたという話をやっていた。)映画の中では魚油を使った表現はあれど火薬を精製しているシーンはないから、あの爆発は火薬ではないと見て良い。
大量の油に火がついて…というのも考えられるが、油に火がつくと爆発するというのは近代の感覚で、粘度が高く揮発性が低かった昔の油の場合、爆発的な燃焼を起こすことはなかったのではないかと思う。
勘違いして欲しくないのは、だからダメだと言っているのではない。
この方が表現として正しいのかもしれないということだ。
私が上で書いたことはリアリティの話であるが、リアリティには、物理的なリアリティと表現的なリアリティがある。
物理的に正しいことが表現として正しいかどうかと言えば答えは否である。
個人的な感想でしかないが、あの合戦シーンは戦争の悲惨さと誇りをかけた戦いの崇高さを表現するには十分だったと感じている。(戦争が良いか悪いかは別問題。)
しかし、もしあの爆発的な凶暴な炎がなかったらどうだったろうか?
そこまでの感想は持たなかったろうと思う。
私達は日々様々な映像表現に接しているが、戦闘表現についてはどことなく、中世の戦い=騎士道、近代戦=悲惨といった感覚がある様に思う。昔は良かった的な感覚だが。
もし、この映画で物理的なリアリティを追求していたら、後者に近い物として見られただろうが、監督の意図はむしろ前者よりだったのではないか。三国志の物語としてのカタルシスと残酷な戦闘描写の融合。雄々しい誇りをかけた戦いと累々と広がる死人の山。
「勝者は誰もいない」という台詞にも、それが集約されている様に思う。
だとすれば、例え史実や物理的なリアリティを外れるとしても、表現のリアリティとして近代戦的な表現を採り入れたことは正解だったのだと思う。その方が私達にとって(物理的にはどうあれ)リアルに感じられるからだ。
が、しかし、否、だからこそ、最後のクライマックスシーンは個人的には、大群衆戦→個人の戦いへのスケールダウンな感じがあってちょっと勿体ないと思う。
主君や英雄だけの話に帰結してしまって良かったのだろうか?
しかし、それをやらなければ軸がぶれてしまうだろうとは思う。
それこそ、表現としてのリアリティと物理的なリアリティの問題。
最後の最後に諸葛亮と周瑜が仲良くお別れするのはどこか歌舞伎的(京劇でもそうなのかな?昔の歌舞伎は、日毎にお客さんを集めるため良い所で終わり、主役と敵役がストーリー関係なしに、「今日はこれまで!又いずれ」とお別れして終わる事が多かった。)だが、最後の主役級同士の戦いのシーンなども含め、歌舞伎・京劇的なパッケージを使うことで膨張する物語をまとめ切ったと言うことも出来る。
いずれにせよ、良い映画だったと思う。
興味のある方は是非。
それはそうと、中村獅童良い味出してたなぁ。
三国志の物語の中でも一番の見せ場の一つ、“赤壁の戦い”を舞台にした一大スペクタクルで、見応えがあった。
Part1はTVで見たが、基礎知識があればPart2だけでも問題なし。
三国志好きの方はもちろん、戦争映画などに抵抗がない方なら、見て損はないと思う。
合戦描写のレベルは結構高い。
見ていてちょっと思ったのは「あっちこっちで爆発していたのは何だろう?」ということ。
この時代、すでに火薬はあったとの説を聞いた記憶はあるが、(漫画の『墨攻』では墨家が火薬を発明していたという話をやっていた。)映画の中では魚油を使った表現はあれど火薬を精製しているシーンはないから、あの爆発は火薬ではないと見て良い。
大量の油に火がついて…というのも考えられるが、油に火がつくと爆発するというのは近代の感覚で、粘度が高く揮発性が低かった昔の油の場合、爆発的な燃焼を起こすことはなかったのではないかと思う。
勘違いして欲しくないのは、だからダメだと言っているのではない。
この方が表現として正しいのかもしれないということだ。
私が上で書いたことはリアリティの話であるが、リアリティには、物理的なリアリティと表現的なリアリティがある。
物理的に正しいことが表現として正しいかどうかと言えば答えは否である。
個人的な感想でしかないが、あの合戦シーンは戦争の悲惨さと誇りをかけた戦いの崇高さを表現するには十分だったと感じている。(戦争が良いか悪いかは別問題。)
しかし、もしあの爆発的な凶暴な炎がなかったらどうだったろうか?
そこまでの感想は持たなかったろうと思う。
私達は日々様々な映像表現に接しているが、戦闘表現についてはどことなく、中世の戦い=騎士道、近代戦=悲惨といった感覚がある様に思う。昔は良かった的な感覚だが。
もし、この映画で物理的なリアリティを追求していたら、後者に近い物として見られただろうが、監督の意図はむしろ前者よりだったのではないか。三国志の物語としてのカタルシスと残酷な戦闘描写の融合。雄々しい誇りをかけた戦いと累々と広がる死人の山。
「勝者は誰もいない」という台詞にも、それが集約されている様に思う。
だとすれば、例え史実や物理的なリアリティを外れるとしても、表現のリアリティとして近代戦的な表現を採り入れたことは正解だったのだと思う。その方が私達にとって(物理的にはどうあれ)リアルに感じられるからだ。
が、しかし、否、だからこそ、最後のクライマックスシーンは個人的には、大群衆戦→個人の戦いへのスケールダウンな感じがあってちょっと勿体ないと思う。
主君や英雄だけの話に帰結してしまって良かったのだろうか?
しかし、それをやらなければ軸がぶれてしまうだろうとは思う。
それこそ、表現としてのリアリティと物理的なリアリティの問題。
最後の最後に諸葛亮と周瑜が仲良くお別れするのはどこか歌舞伎的(京劇でもそうなのかな?昔の歌舞伎は、日毎にお客さんを集めるため良い所で終わり、主役と敵役がストーリー関係なしに、「今日はこれまで!又いずれ」とお別れして終わる事が多かった。)だが、最後の主役級同士の戦いのシーンなども含め、歌舞伎・京劇的なパッケージを使うことで膨張する物語をまとめ切ったと言うことも出来る。
いずれにせよ、良い映画だったと思う。
興味のある方は是非。
それはそうと、中村獅童良い味出してたなぁ。
2009年3月29日日曜日
「三国志」を見て
ユナイテッド・シネマ福岡でアンディ・ラウ主演の「三国志」を見てきた。
前評判では「三国志と思って見るとガッカリする」とのことだったが、確かにそんな感じ。
でも、思った程ひどくはなくて、「戦国時代の歴史小説が好きだけど“花の慶次”も好き」という方なら十分楽しめると思う。
ただ、そうは言っても「三国志」と銘打つのはどうかとは思う。
以下、ネタばれあり。
観る予定の方はご注意下さい。
「三国志」と銘打っては居ますが、実際はその中でも美丈夫として有名な趙子龍(趙雲)の生涯にフォーカスした映画。
公式サイト
http://www.sangokushi-movie.jp/
割と詳しいストーリーがサイトに載っている。ので、省略。
アンディ・ラウ扮する三国志の英雄趙子龍とサモ・ハン・キンポー演じる羅平安(架空の人物)の運命の明暗と友情の物語で、私なりにタイトルを付けるとしたら、
『老いたる英雄の憂鬱 ~趙雲列伝~』
見たいな感じか。
趙子龍の物語と言う意味で、若い頃から最後の出撃までを男の友情などと共にまとめた作品だが、ストーリー的にはやや穴も多く、ややV-シネマ的な部分もあり、失礼な言い方かもしれないがB級任侠映画の一つとしてみた方がたぶん楽しめると思う。
見ていて、「私だったら」という想像が結構動いた。
私だったら趙雲が最後に篭城した城をメインステージにする。
絶望的な状況で援軍を待つ老英雄。
じりじりとした時間の中で、昔から一緒の戦場に身を置いていた兄貴分でもある羅平安と初めて出会った頃や運命を分ける長坂の戦いなどを語る。
波状攻撃を行う包囲軍に対しては老いてなお獅子奮迅の戦いを見せる趙雲。
しかし、包囲軍は何もせず囲んでいるだけの日々もあり、城内の士気は落ち、ふとした拍子から羅平安に裏切りの疑いが掛かる。命を投げ出してみせる羅平安に、疑いを打ち消す趙雲。
そんなこんなしている内に、援軍が来ないことが明白になる。
絶望的な状況の中で、最後に華々しく散ることを願う兵士達の出撃を見送った後、羅平安と語る趙雲。
実は本当に裏切り者だったことがわかる。しかし、それを許す趙雲。
羅平安の銅鑼を聴きながら最後の出撃を行う。と言う感じか。
蜀の国のこととかは入れない。(サブエピソードとして入れても良いが。)
もっとなんか閉塞感漂う物語に仕上げて欲しかったなあ。
んで、若いシーンは挿話的にして老いたる将軍のシーンを中心にして。
物語開始時点では、英雄として一時代を築いた自分に降りかかる運命に対し忸怩たる思いを抱いていた老英雄が、それに対面し、最後にはそれを受け入れるというカタルシスが見たかった。
ちょっとわかりやすかった。
レッドクリフに対抗しようとしたらしいが、(あっちも見ていないが)同じ方向性を狙った結果、制作費の差による派手さの差で負けちゃったように思う。
大手資本の旅館の価格競争に巻き込まれた中小旅館みたいな物か。
別な切り口が必要だったと思う。
「三国志」って言うタイトルもやっぱりね~。
私にとっては、「三国志」と言えばやはりこっち
だし。
前評判では「三国志と思って見るとガッカリする」とのことだったが、確かにそんな感じ。
でも、思った程ひどくはなくて、「戦国時代の歴史小説が好きだけど“花の慶次”も好き」という方なら十分楽しめると思う。
ただ、そうは言っても「三国志」と銘打つのはどうかとは思う。
以下、ネタばれあり。
観る予定の方はご注意下さい。
「三国志」と銘打っては居ますが、実際はその中でも美丈夫として有名な趙子龍(趙雲)の生涯にフォーカスした映画。
公式サイト
http://www.sangokushi-movie.jp/
割と詳しいストーリーがサイトに載っている。ので、省略。
アンディ・ラウ扮する三国志の英雄趙子龍とサモ・ハン・キンポー演じる羅平安(架空の人物)の運命の明暗と友情の物語で、私なりにタイトルを付けるとしたら、
『老いたる英雄の憂鬱 ~趙雲列伝~』
見たいな感じか。
趙子龍の物語と言う意味で、若い頃から最後の出撃までを男の友情などと共にまとめた作品だが、ストーリー的にはやや穴も多く、ややV-シネマ的な部分もあり、失礼な言い方かもしれないがB級任侠映画の一つとしてみた方がたぶん楽しめると思う。
見ていて、「私だったら」という想像が結構動いた。
私だったら趙雲が最後に篭城した城をメインステージにする。
絶望的な状況で援軍を待つ老英雄。
じりじりとした時間の中で、昔から一緒の戦場に身を置いていた兄貴分でもある羅平安と初めて出会った頃や運命を分ける長坂の戦いなどを語る。
波状攻撃を行う包囲軍に対しては老いてなお獅子奮迅の戦いを見せる趙雲。
しかし、包囲軍は何もせず囲んでいるだけの日々もあり、城内の士気は落ち、ふとした拍子から羅平安に裏切りの疑いが掛かる。命を投げ出してみせる羅平安に、疑いを打ち消す趙雲。
そんなこんなしている内に、援軍が来ないことが明白になる。
絶望的な状況の中で、最後に華々しく散ることを願う兵士達の出撃を見送った後、羅平安と語る趙雲。
実は本当に裏切り者だったことがわかる。しかし、それを許す趙雲。
羅平安の銅鑼を聴きながら最後の出撃を行う。と言う感じか。
蜀の国のこととかは入れない。(サブエピソードとして入れても良いが。)
もっとなんか閉塞感漂う物語に仕上げて欲しかったなあ。
んで、若いシーンは挿話的にして老いたる将軍のシーンを中心にして。
物語開始時点では、英雄として一時代を築いた自分に降りかかる運命に対し忸怩たる思いを抱いていた老英雄が、それに対面し、最後にはそれを受け入れるというカタルシスが見たかった。
ちょっとわかりやすかった。
レッドクリフに対抗しようとしたらしいが、(あっちも見ていないが)同じ方向性を狙った結果、制作費の差による派手さの差で負けちゃったように思う。
大手資本の旅館の価格競争に巻き込まれた中小旅館みたいな物か。
別な切り口が必要だったと思う。
「三国志」って言うタイトルもやっぱりね~。
私にとっては、「三国志」と言えばやはりこっち
だし。
『金持ち父さん貧乏父さん』読了
『金持ち父さん貧乏父さん』(ロバート・キヨサキ著)を読んだ。
妻がだいぶ前に購入した本で、タイトルや帯を見れば内容的に大体予想が付き、この手の本は好きじゃないので避けていたのだが、なんとなく読んでみようと思って持って行った。
当初、金持ち父さんは何故金があるのか、どうやって稼いだのか、と言った、テレビのニュースで表彰される様な成功者の金儲けテクニックと説教と自慢話の本だと思っていたのだが、読中読後に頭の中に思い浮かんだのは、坂口尚の『あっかんべェ一休』(講談社漫画文庫)だった。
「全ての人が“人生に突かれ”ながら生活しており、突かれることに対抗するために、金や力を手に入れようと考えるが、金や力も所詮は道具でしかなく、人生の舵取りを自分で行えない限り=突きにかかる人生に立ち向かわない限り、金を稼いでも根本解決にはならない。
お金持ちになりたいなら、お金の持つ魔力(もっとお金があれば幸せになれるという幻を見せる力)から自由にならなければならない。」
というような(かなり偏りのある要約だが)主張が根底にある。
この辺はよくわかる。
今までに就いた全ての仕事で、「このままじゃジリ貧だ」という思いを抱かなかった仕事はない。
しかし、ではどうしたらジリ貧から逃れることができるかになると、どこかにある答えを期待し、あるいは上司が、会社が、あるいは世界が自分の成果を認めてくれてジリ貧から救い出してくれると、無邪気に期待していた(いる)ような気がする。
シンデレラですな。
10年前なら、この本を読んでも特に感慨は沸かなかったろうと思う。
お金を稼ぐことで、何も変わらないと思っていたから。
でも、そうしてお金を稼ぐことから目を背けて生活を続けてきても、結局何も変わらなかった。
本の中の言葉で言えば“人生に突かれ”まくっている。
抵抗することもできず、結局、新しい境遇からもリタイヤしてしまったわけだが、これだって、自分で選んだわけじゃない。直接的には会社の選択だが、結局の所、私自身が自分の人生に立ち向かいきれなかったからで、その根底にある原因は、日々の生活の糧を得るため=「お金を得るため」仕事をしてきてしまったことにあると感じた。
生活を維持するため、より良くするためにはお金が必要で、その為には仕事をする必要があって、
これまで、私にとって、仕事とは日々の生活を維持できればそれで十分、それ以上は仕事したくないと考えていて、
でも、子供や家族を幸せにしようと考えたら、その欲望を十分満たすお金が必要で、
考えを変えて仕事をドンドンやればやるほど心身に負担が募って、死ぬことばかり考えるようになって、
これらの色々の根源は、詰まる所、お金を稼ぐことに対して真っ向から立ち向かおうとしなかったからなんだと思う。
どうすべきか?
仕事から自由になるには。会社や上司や世界から自由になるには。
それを考える度、「もう遅いよ」とつぶやく自分がいる。
「一番大事な時期を無駄に過ごしたんだからしょうがないよ。」と。
たぶんこのまま人生を終えるとしたら、今わの際にそういう感想を持たざるを得ないだろう。
つい最近まで、それもしょうがないと諦めてきたが、よく考えると、それこそ、これまでずっと、そうはなりたくないと思い続けていたものだ。
まあ、お金に対して自分の頭を使うことが大事なんだと思う。
これから、少し悪足掻きしてみよう。
あと、こんなブログもあった。
「金持ち父さんは実在しなかった!」 - 幸せな成功のための魔法の杖
ゲームを売るための本だったと。さもあらん。
んで、この著者自信がロバート氏のセミナー商法を実践しているらしい。
情報が一番の商品、なんでしょうな。
妻がだいぶ前に購入した本で、タイトルや帯を見れば内容的に大体予想が付き、この手の本は好きじゃないので避けていたのだが、なんとなく読んでみようと思って持って行った。
当初、金持ち父さんは何故金があるのか、どうやって稼いだのか、と言った、テレビのニュースで表彰される様な成功者の金儲けテクニックと説教と自慢話の本だと思っていたのだが、読中読後に頭の中に思い浮かんだのは、坂口尚の『あっかんべェ一休』(講談社漫画文庫)だった。
「全ての人が“人生に突かれ”ながら生活しており、突かれることに対抗するために、金や力を手に入れようと考えるが、金や力も所詮は道具でしかなく、人生の舵取りを自分で行えない限り=突きにかかる人生に立ち向かわない限り、金を稼いでも根本解決にはならない。
お金持ちになりたいなら、お金の持つ魔力(もっとお金があれば幸せになれるという幻を見せる力)から自由にならなければならない。」
というような(かなり偏りのある要約だが)主張が根底にある。
この辺はよくわかる。
今までに就いた全ての仕事で、「このままじゃジリ貧だ」という思いを抱かなかった仕事はない。
しかし、ではどうしたらジリ貧から逃れることができるかになると、どこかにある答えを期待し、あるいは上司が、会社が、あるいは世界が自分の成果を認めてくれてジリ貧から救い出してくれると、無邪気に期待していた(いる)ような気がする。
シンデレラですな。
10年前なら、この本を読んでも特に感慨は沸かなかったろうと思う。
お金を稼ぐことで、何も変わらないと思っていたから。
でも、そうしてお金を稼ぐことから目を背けて生活を続けてきても、結局何も変わらなかった。
本の中の言葉で言えば“人生に突かれ”まくっている。
抵抗することもできず、結局、新しい境遇からもリタイヤしてしまったわけだが、これだって、自分で選んだわけじゃない。直接的には会社の選択だが、結局の所、私自身が自分の人生に立ち向かいきれなかったからで、その根底にある原因は、日々の生活の糧を得るため=「お金を得るため」仕事をしてきてしまったことにあると感じた。
生活を維持するため、より良くするためにはお金が必要で、その為には仕事をする必要があって、
これまで、私にとって、仕事とは日々の生活を維持できればそれで十分、それ以上は仕事したくないと考えていて、
でも、子供や家族を幸せにしようと考えたら、その欲望を十分満たすお金が必要で、
考えを変えて仕事をドンドンやればやるほど心身に負担が募って、死ぬことばかり考えるようになって、
これらの色々の根源は、詰まる所、お金を稼ぐことに対して真っ向から立ち向かおうとしなかったからなんだと思う。
どうすべきか?
仕事から自由になるには。会社や上司や世界から自由になるには。
それを考える度、「もう遅いよ」とつぶやく自分がいる。
「一番大事な時期を無駄に過ごしたんだからしょうがないよ。」と。
たぶんこのまま人生を終えるとしたら、今わの際にそういう感想を持たざるを得ないだろう。
つい最近まで、それもしょうがないと諦めてきたが、よく考えると、それこそ、これまでずっと、そうはなりたくないと思い続けていたものだ。
まあ、お金に対して自分の頭を使うことが大事なんだと思う。
これから、少し悪足掻きしてみよう。
あと、こんなブログもあった。
「金持ち父さんは実在しなかった!」 - 幸せな成功のための魔法の杖
ゲームを売るための本だったと。さもあらん。
んで、この著者自信がロバート氏のセミナー商法を実践しているらしい。
情報が一番の商品、なんでしょうな。
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