2010年10月29日金曜日

『褐色の文豪』読了

図書館で借りた佐藤賢一の本。
『傭兵ピエール』、『王妃の離婚』に続き先日読了。

アレクサンドル・ディマ(父の方)の生涯を魅力一杯に書き上げた作品。
面白く、やがて切ない、佐藤賢一節の真骨頂と言うべきか。

とても魅力的で、でもたぶんリアルには絶対友達になりたくないそんな人。

佐藤賢一の作品を読んでいると、どの作品にも「絶対的に幸せな人」は出てこない。
絶対何かトレードオフしている。

この作品の主人公デュマであれば、堅実で平凡な日々か。
そんなもん魅力は無いと思ってしまうが、そんなことはないと言う事実が、デュマの魅力を語る中で、反対にいやおう無く浮かび上がるのはすごい。

『三銃士』また読みたくなってきた。

2010年10月19日火曜日

『告白』読了。

妻から借りた。
本を読むのが遅い方なのだが、瞬く間に読了。
面白い。

各自の告白によりひとつの事件が多面的な様相を表すという構造は、ミステリーにはよくあるものだが、明るい澄んだ狂気とでも言うべきなんとも言えないものが、ページを捲るのに従い、薄皮を剥ぐ様に徐々に露になる様子は秀逸。

妻はマイミクよむよむさんが書いた作品の様だと言っていたが、正にそうだと思った。

読みきった時、実は自分がどこかで分かりやすい正義を期待し、それが裏切られたことに、爽快感を感じました。

是非映画も見たい。

2010年8月8日日曜日

『オーデュボンの祈り』読了

近所の図書館では伊坂幸太郎の本は割と人気があるらしく、棚にあるのを初めて見た。

内容的には、現実性活のすぐ横にあるちょっとずれた世界に来た人を軸にした世界が少し変わるといった内容で、もろに好み。

明るい村上春樹と言うか、ドラマティックな椎名誠と言うか。

伊坂作品には、「人間の恣意性(欲望?)への怒りと諦めと願い」が通底しているような気がしているのだがどうか。

「唐突で有無を言わせぬ発端」から始まる話も多いような。


巻末の解説で、乃南アサ氏が「主人公が仙台におきっぱはしにしてきている現実が、もっとリアリティを持ってバランス良くかけていて欲しかった。」と書いてるが、それは作者の頭の中にそれがリアルな映像としてあったのではないかとも思う。
確かに恋人と祖母のことを除けばほとんど語られてはいないが、敢えて削ったのではないかと。

「現実」の舞台は仙台で、現地に住んでいた人間にしてみれば、割と容易くイメージ出来ることが、他の地域の人にはそうではない。当たり前。

これが東京や大阪であれば、地名や二三の言葉でイメージ出来ることはさらに増えるだろうが。

「JRの秋葉原駅のガードを抜けると、電器店の店員のマイクパフォーマンスが響き、視界にゲームやアニメのキャラ達の看板が飛び込んでくる。」
と言うのと、
「駅前のペデストリアンデッキでは夕方の情報番組の野外レポーターが派手な法被や扇子で着飾った踊り手と祭りの話で盛り上がっていた。」
というのでは、

たぶん前者の方がわかる人は多いだろうと思う。


でもだからと言って、他の地域の人が「仙台の人生」をきっちりイメージできるほど書き込むのは戯作としてどうなのか。

どこか映像的と言っても良いこの作品のテンポを阻害してしまうのではないか。
作者はそこを敢えて切り捨てたのではないだろうか。


この作品は、ドロッとした残虐性を秘めながら明るい。
その明るさの底には諦めと受容がある。


面白かった。


追伸

伊坂作品は一部ヤンマガ的だが全体通すとモーニング的で少なくともジャンプじゃない

2010年6月28日月曜日

どう生きてどう死ぬかを子供は見ている

父が死んで100日以上過ぎた。
父のことを思い出して泣いてしまうようなことは無くなった。

仕事は面倒くさい仕事が増え、しかも自分の仕事がなかなか出来ない状況が続いている。
ここまで来た仕事の遍歴を考えると、私が仕事を選ぶ基準は「他の人がなかなか手を出さない面白い仕事で、人の役に立って感謝される仕事」というものだった。

でも、面白い仕事は、慣れれば面白くなくなる。
人の役に立つ仕事はいくらでもあるが、「感謝してもらえる仕事」となるとほとんど無い。
また、感謝してもらえる仕事はお金になりにくい。

そんなこんなで仕事を色々と遍歴し、コンサルになった時は、上記+お金が儲かる仕事ということで大躍進を狙っていたのだが、結局挫折して、今に至っている。

これまで、それを考える時、いつも主軸は自分だった。
でも、それだけじゃちがう様な気が、最近してきた。

父と母は私の小さい頃、仕事のことで毎晩喧嘩していた。

あの時、父と母の言い争ったことの最大のポイントは、言ってしまえば、「父にとっては実家の母や兄弟も自分の妻子もみな家族だが、母にとっては自分と夫と子供が家族だ」ということに還元出来る。
父と母の職場は父の実家であり、祖母や叔父が共同経営者という状況もあって、また、あくまで長男(叔父)の家計が後を継ぐが、現実的には様々な業務のほとんどは父と母が行っていたということも面倒くさい状況を作っていた。
そんな中で、結局会社=実家に対して犠牲を強いられていることに耐えられないと訴える母とだからと言って放り出すわけに行かないと話す父の会話はいつも平行線で、離婚するだのなんだのという話も何度も出ていた。

(結局、死が二人を分かつまで一緒に生活していたのだが)。

闘病の床にいた父と話していた時、父がエンジニアとして社会に打って出る夢を持っていたことを聞いた。
しかし、大学時代に祖父が死に、結局その夢は果たせないまま故郷にくすぶることになった。
だが、そういった外因ばかりでなく、自分自身エンジニアとしての勉強をしっかりしてはおらず、いずれ挫折するのでは?との不安感を持っていたこともあって、それから逃れるような思いもあって実家に帰ったとも言っていた。

そんなこんなで、実家の家業を継いだ叔父のサポートをすることになった父にとって、実家を盛り立てることは、自己実現の手段でもあったのだろうと、想像出来る。

でも、もし、父が自分の夢に忠実に生きようと考えていたら、あるいは、母が父の持っていた夢を盛り立てる方に話を持って行っていたら。
状況は大きく変わっていただろう。
父の実家の家業は倒産していたかも知れないし、今の私は居なかったかも知れない。

だが、そうはならず、父は母と喧嘩しながら実家の家業を盛り立て続けた。
その無理が祟って倒れてからは、母との生活を大事にした第二の人生を送っていた。

父は、私に自分の理想や夢を押しつけることはなかった。
それは、自分が夢に忠実になれなかったことに対する思いもあったのかもしれない。

父は、みんなが幸せな生活を送れることを、何より願っていた。
そのために自分が為すべき事を黙々とやっている人だった。

もちろん、父が自分の夢に向けて進んで行こうとしなかったことや、言葉が少なかったために母と揉めることが多かったことなど、欠点を挙げれば色々ある人だけど、少なくとも、父はその時その時で精一杯自分が出来ることをやってきた。

では、私はどうなんだろう。
精一杯やって来たとは思うけど、今の状態がベストだとも思えない。
経済的には余裕が無く、将来にも不安だらけ。
職場に対しても不満を抱えて、昨今では鬱っぽくなることも多い。

でも、こういう私を、子供達は見ている。

言葉ではなく、その生き様を。
生き方と死に方を。

これを機会に、残された期間、どんな生き方をしてどんな死に方をすべきか、少し考えたいと思う。

2010年4月15日木曜日

半端ハック お湯が出ない台所で油ものを洗う

役に立つかもしれないが余り劇的ではなく、使ったところで人生を変えるほどじゃないがちょっとだけ楽になる、そんな「中途半端なライフハック」略して「半端ハック」。

お湯が使えない台所で、油ものを洗う時は、一番汚れがヒドイ鍋の中身を空けた後、水を入れ洗剤を足した物をコンロで沸かす。
中には、油ものの汚れのある食器類をつける。
脂肪質の塊がある場合は予め新聞紙やキッチンペーパーで拭っておくとよい。

グツグツ煮る必要は無し。ちょっと暑めのお風呂くらいでよし。

後は、少し漬け込んだ後、スポンジに洗剤を付けて鍋の食器を洗っていく。
洗った泡は極力鍋に入れる。
洗ったものは泡を流水で流してフキンで拭く。

最後に鍋を洗い、流水で流す。
一回で汚れが落ちない時は二度三度沸かして洗ってを繰り返す。

以上。


※洗剤を多用するし水場とコンロが近いのが前提なので、野外では厳しいか。
※基本的には固まったものは溶かして、エネルギーを使う時はできるだけまとめる。

2010年1月1日金曜日

『アヒルと鴨のコインロッカー』鑑賞

「アヒルと鴨のコインロッカー」を見終わった。
思った以上に良い映画だった。

瑛太の気色悪いファーストインパクトは強烈。

「アヒルと鴨の…」でロケに使われたキャンパス、懐かしいなぁ。

でも、襲うのが塩釜店なのはどうか?
ちなみに舞台となったブックスなにわは近年までコミック立ち読みオールOKの夢のような本屋だった。