2009年9月20日日曜日

『クラウド化する世界』ニコラス・G・カー:著 読了

読み始めて、以前読んで感銘を受けた『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』の作者であることを思い出した。

前著は、ITは最早社会全体に当たり前に存在するシステムの一つであり、導入したからと言って、即 他企業に対してアドバンテージを得ることができる道具ではすでにないこと、かつて電気が使われ出した頃、あるいはメインフレームなどが使われ出した当時の航空会社の歴史的事例などから説明し、“ITを入れれば儲かる!”などという希望的観測による幻想ではなく、ちょうど電気家電を導入する時のように、コストパフォーマンスを十分に検討した上で必要な物を必要なだけ導入すべき…という内容だった。

今回読んだ『クラウド化する世界』。

実は昨今ビジネス書などで「Googleのサービスなどを効率よく使おう」的な「クラウド・コンピューティング」が話題になっているらしく、作者名を見ず、この本もその手の本だと思って手に取ったのだが、内容は全く違った。

以下、ネタばれ有り。



この本が語るのは、「クラウド・コンピューティング」と呼ばれる物の本質である。

技術の進化は、人々の生活をより楽で効率よいものに変えてくれたが、それは、一人一人の幸せを追求するためではなく、むしろ、企業の利益追求や政府の治安維持・統治強化により役立てられてきた。

インターネットが生み出した情報空間は、インターネットの興隆期によく言われた「何者にも束縛されない自由な世界」であると良く言われるが、それは見せかけだけであり、実際は、ネットワークの発達と情報処理技術の発達は、政治や経済を支配してきた者が、よりその支配をしやすくするための力となり、むしろ、インターネットがない時代よりも私達を容易に束縛できるようになっていく。それを電気が巡った歴史などを引き合いに説明している。

人類の歴史で、主要な動力は長く人間or家畜の力だけだった。

産業革命の前、アメリカでは水車を制する者が経済を制した、が、数年後、水車は錆びて朽ち果て、電気とモーターがその代わりを担った。機械的により単純に組むことが出来る電気とモーターは、工場の配置を自由化し、効率追求を実現し、結果、それまでは熟練工の存在が必要だった製造の現場を、むしろ生産ラインの一部として単純作業を効率よく進められる人間が求められるようになった。
機械の身体(@銀河鉄道999)のような存在が、プロフェッショナルにとって変わったのは、まさにこの電気技術の発達によるのだ。

また、電灯の発明により、人は夜に生活するのが当たり前となったが、これが、生活の隅々における労働時間の延長を産み、人々の生活のスタイルをがらっと変えてしまった。

同じように、情報技術の発達は情報発信のリスクやコストをどんどん下げ、かつては本や新聞、テレビやラジオなど、マスコミュニケーション媒体を通すか、個人としては膨大なコストやリスクを背負わなくては発信出来なかったような情報が、ほとんどコストをかけなくても発信出来るようになった。
最早、情報発信のために既存のメディアは必要なく、また、情報技術のウィザードも必要ない。
WEB2.0なんて言う言葉がどこか理想主義的な意味合いで用いられているのは、この情報技術の発展により、既存の政府、企業が主体ではなく、情報の受け手が同時に送り手になれるという状況が、絶対的な自由を生み出すものと無邪気に空想されたからである。

正直、私もそう考えていた。

だが、発達したこのネットワークとデータベースは、企業や政府が、個人の思想や嗜好、生活についての情報を集めることを容易にしている。ただ、それらの膨大な情報を整理し関連づけし、意味のある情報のまとまりを作り上げることが出来る検索技術やデータマイニング技術を活用するだけでいいのだ。しかもそれらの技術は、クラウド化によってより低コストで導入することが可能となっているのだ。
電気技術が個人を生産の現場のパーツにしたように、情報技術は個人を効率的な情報収集の素材として、効率的な消費者として、見えないWEBの糸で絡め取っていくだろう。

最終章では、やや良くあるSFの人工知能者のような未来が語られている。
一人一人の脳が情報端末を通して、クラウド化したワールドワイドコンピュータと直結してる世界。
個人の経験や思考はワールドワイドコンピュータに全て蓄積・マイニングされ、欲しい情報は全てワールドワイドコンピュータで手に入れることが出来る世界。

馬鹿な、と言いたいけど、こうなっていくんだろうな、とも思う。
まるで星新一の『声の網』やジョージ・オーウェルの『1984』、京極夏彦の『ルー・ガ・ルー』の世界だ。

個人でそれに反発しようとしても無理だろうし、実際、こんな文章をブログに書いてる時点で、まさにその渦中にありそれを促進していると言えるわけで、あまり意味があることとは思えない。

たぶん、これが当たり前になった世界では、幸せの形も今とはだいぶ違ったものになるだろうし、「自由」という言葉が表す意味も全く変わっていくだろう。
そんな世界にいて、生きる意味があるのか?

でもよく考えてみると、それは今も一緒で、多分過去も一緒だったように思う。
大政翼賛会と軍部が支配したと言うかつての日本やナチスが支配したと言うドイツでも人は生きていた。
自由の国と言われているアメリカが、本当に自由で平等であった試しはない。
本当の自由があるとしたら、個人の頭の中だけのことで、束縛される人間は、情報技術や科学技術の無い世界でも、何かに束縛されながら生きるのだ。

この世界に人の身を以て生きると言うこと自体が本来束縛なのだ。
本当の意味でその束縛を脱するには、自分自身を構成するその自我という束縛からほどけることなくしてはあり得ないのだ。

願わくば、その世界に生きるであろう息子達や息子達の子供達が、幸せを感じながら生きていけることを。

ともあれ、安易なビジネス書で語られる「クラウド・コンピューティング」とは全く違う、おもしろさに溢れる本。
一読をオススメしたい。