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2026年1月10日土曜日

MICHInoXを観る前と後

 今日は午後からMICHInoXの芝居を見に行く。

とても楽しみ。もう死ぬまで東北で作られた芝居を見ることはないと諦めてたので、思いがけずウキウキしてる自分がいる。

原西さんは昔も良い役者だったけど、今はきっともっともっといい役者になっているのだろうな。楽しみ。

(と言いつつ、だいぶ昔に耳なし芳一のリーディング公演で共演したことがあったのをすっかり忘れてた。妻に指摘されて思い出した。情けない。)


「ふるさとの訛り懐かし」な気持ちもあるが、宣伝動画観た時から多分滅茶苦茶面白い様な予感がしてる。福岡では、絶対見ることが出来ないタイプの芝居が見られると期待している。


MICHInoXの芝居は会津戊辰戦争がモチーフの一つらしい。九州の人が平和学習で長崎に行くように、私が小学校の時の修学旅行は会津若松に行った。占領した方は忘れてるが東北は一度(というか何度も)同国人に侵略され敗北し占領された土地であることを今更ながら思い出す。

思うに、私が辺縁の人々(あっちと言われつつこっち側扱いされ、こっちと言われつつあっち扱いされる境界線上の人々)や境界そのものになんとなく心惹かれるのは、私の場合、東北で生まれ育ったことも要因の一つなのかもしれない。


中略


そうしてMICHInoXを観てきましたが、滅茶苦茶期待して観に行ったのに、その更に上を行くものを体験させられて、もう、語彙力が追いつかない感じ。

芝居を観て泣いたのは何年ぶりだろう。否、何十年ぶりかも知れない。(うるっと来るくらいは有ったけど、泣いたのは本当に久しぶりだと思う。)

芝居とは、役者であり、物語であり、関係性であり、空間であり、体験であり…などと言う、全部がつまった表現で、新年早々だけどたぶん、今年見る芝居のベストスリーに確実に入る作品だと思う。

初めてだったけど「これが観たかった」と思った良い芝居だった。

2024年4月21日日曜日

身体を使うこと

 運動とは敢えて言うまい。

身体を使うことは好きだ。動かすのが気持ちいいし楽しい。子供の時からそうで、落ち着きのない子供だったと思う。走り回ったり飛び跳ねたり好きだった。

なにかのフリをするごっこ遊びもきらいじゃないが、なにに扮するかで大きく違っていた。そして誰かと一緒の時は大概自分が望まぬ役をやらされてた気がする。だから、いつの頃からか一人遊びが好きになった。

球技や競技は嫌いだ。結果が明確に出るのが嫌だし、結果のためにやりたいことを我慢させられるのも、それが正当化されるのも嫌だ。

2020年8月13日木曜日

台本使用料の規定を変更しました

 自作品の台本使用料については、これまで「はりこのトラの穴]の規定を使ってきましたが、演劇を取り巻く状況などの変化を踏まえ、劇作家協会の決議などを参考に、以下のような内容に変更することにしました。

・無料公演:五千円 ※但し小学校・中学校・高校・その他学生の公演の場合は無料
・有料公演:総予算の5%(百円未満は四捨五入。五千円に満たない場合は五千円。)
・記録物(録音・録画した物)の公開・販売:別途相談


2020年5月23日土曜日

『ワガクニ』と『×(ペケ)な人々』をKindleで出版しました

私の戯曲作品をKindleで電子書籍として出版しました。

こちらはKindle Unlimitedでも読めます。

こちらはGoogle PlayBOOK WALKERでも販売してます。

ご興味のある方は是非ご購入下さいませ!!

2020年5月4日月曜日

「触れ合い」への揺り戻し

コロナの影響で世界の常識が変わり、「触れ合いへの忌避」が今後起きてくるのでは…という話を最近よく聞くけど、個人的には「安心して触れ合える人とそうでない人」のギャップが大きくなるだけで、「触れ合い」そのものの価値はむしろ高まるんじゃないかと思うのだがどうだろう。

2020年3月23日月曜日

物語による癒やしは万能ではない

昨日、南無サンダーさんの第13回公演見世物音楽演劇『ポイズンゼファー』を観てきた。
一日経って思ったことをつらつら書いてみようと思う。

2019年10月9日水曜日

方言のイメージ

「東北弁喋る人って素朴な感じがする。ヤクザとかいなさそう。」
妻と話をしていた時に、妻からふと出た言葉。
少し前に私が書いた台本に郷里の方言をしゃべるキャラクターを登場させた事があるのだが、方言を喋りながら他人を問い詰める様な話で、読んでもらった時の感想は「怖い」だったのだけど、その「怖い」の根底はここにあったらしい。
素朴そう、純朴そうなイメージの言葉をしゃべる人が他人を問い詰めるから怖いと。
なるほどと思った。

2019年9月16日月曜日

折り込みチラシの有用性

演劇の制作に関しては素人だが、仕事で情宣関係のこともやっているので、その視点からいわゆる「折り込みチラシ」の有用性について考えてみた。

2019年8月17日土曜日

「レ・ミゼラブル」たちの世界

少し前に、青年時代に折々心に移り行く由無し事をそこはかとなく書き付けていたノートを何冊か見つけ、読み返して、あの頃の灰色と言うか仄暗い(漆黒でも色鮮やかでもない)日々を思い起こしうんざりしてしまった。
何よりうんざりしたのは自分が今で言う「自己責任」だったり「新自由主義的」なことを書いていたことだ。曰く、今の自分はダメで、このままではジリ貧で、この状態から脱するためには強くならねば、変わらなければならない。変わろうともせず弱者に甘んじるべきではなく、まして弱者であることを権利のように振りかざすのは間違ってる云々。
黒歴史とはこのことだ。
鬱で会社を辞めたり、自分に発達障害的な傾向があることを知って以降、私のモノの見方は大分変わった。が、今の私からみてため息をつきたくなる様な言動を私自身していたという事実は、ネット上などで眉をひそめたくなるようなヘイト発言を繰り返す人達と私とは地続きということで、なんとも暗澹たる気持ちになる。
まあ、人間とはそういうものと、諦めるしか無いのだろう。
先日、家族みんなで「レ・ミゼラブル」のミュージカルを観た。
ダイナミックでパワフルで完成度が高い舞台はとにかく圧巻で、面白かった。エンターテイメントとはこれ、と言う感じ。
感想としてはそれ以上は無いのだけど、そこはそれ、観ながら感じたことをいくつか書いてみようと思う。

2005年7月4日月曜日

Gin's Bar Actor's Gym公演「COLORS」

「COLORS」を観て来た。
恋愛モノは苦手だなぁと思った。
おしりの辺りがむず痒くなるという噂を聞いていましたが、噂に違わぬ作品だった。
等身大の女性の恋愛エッセイの朗読やエチュードで綴るオムニバス演劇。

Actor's Gymで研修中の女優達が自分自身に出会う。

モノローグ、ダイアローグの稽古をしながら自分自身の物語を創作し発表します。


個人的な趣味で言うと役者二人によるエチュード物は面白かったけど、三分の二以上を占めるモノローグ、ダイアローグは観ていてしんどかった。

あそこで語られていた言葉はおそらく役者と演出とで共同で作っていったものなのだと思うが、あれらのモノローグ、ダイアローグを"等身大の女性"の言葉とするのはいかがなものか?
穿った見方かもしれないが、男の演出のフィルターでだいぶ不純物が漉し取られたもののように感じた。
おそらく(題名からして)、一人一人の女優の個性を大事にし、その個性がいくつもの色を並べたように見えればと企画されたのだと思うのだが、この演出のフィルターによって一人一人の不純物が失われたために、結局は七人共がほぼ等質なものになってしまった。
二人でのエチュードでは、このフィルターが比較的少なく、おかげで各役者の個性が少しだけ見えた。
でも、正直これで「COLORS」と言うのは看板に偽りありですぜ。

演技者はセリフを一度自分自身から引き剥してその言葉との距離を探り直す必要がある。
今回の作品では、言葉を役者から引き出したことで十分リアルであると考えて、その辺の作業を抜いてしまったのではないだろうか。
言葉自体ネタ自体がその役者から出たものでも、それを演じるとなれば他人の言葉他人のネタと同じ、否、むしろ下手に思い入れがある分かえって難しいと思う。
等身大の自分と思っているものは、自分フィルターを通した自分であり、他者から見れば歪んだものである。
もちろん逆もまた真である。
この両者をぶつけあい、摺り合わせることで、本当の意味での等身大の自分が浮かびあがって来る。
この摺り合わせがほとんど感じられなかった。

例えば、他人が作った言葉を読ませるとか、全く同じ言葉を何人もで読ませるとか、二人ものだけでなく三人もの、四人もののエチュードをやらせるとか、女優同士がぶつかり合わざるを得ない仕掛けを用意し、その表面的なやり方にはもっと自由度を高めておくなどした方が、そのギャップを埋めようとする足掻きの中から本当の各人の色-COLORSが浮かびあがったのではないだろうか?

まあ、それはあんたの趣味だろと言われればそれまでだが。

2005年5月1日日曜日

OtoO presents「やさしいふたり」

OtoO presentsプロデュース公演 4
「やさしいふたり」

作:芦口十三
演出:へも
キャスト:白鳥英一/笙司みつえ/升孝一郎(客演)
スタッフ:へも/他

日時:
6月17日(金)19時30分
18日(土)14時/19時30分
19日(日)15時
※開場は開演の30分前

会場:
せんだい演劇工房10-BOX box1
仙台市若林区卸町二丁目12-9
022-782-7510

料金:
一般 前売り¥1800/当日¥2000
学生 前売り¥1000/当日¥1200
高校生以下 前売り¥800/当日¥1000

プレイガイド:
せんだい演劇工房10-BOX/あべひげ/141プレイガイド/出演者

お問い合わせ:
携帯 090-8255-6304(白鳥)
E-Mail siratori@jt3.so-net.ne.jp
OtoO presents http://www008.upp.so-net.ne.jp/otoo/

電話予約:090-8255-6304(白鳥)
ファックス予約:022-246-4256

部屋に取り残された二人。
部屋に取り残された手紙。
二人は何故そこにいるのか覚えていない。
二人は話し出し、記憶をたどっていく。
「いる」「いない」存在についての話です。

やさしすぎた二人のお話は、そこで終わるのではなく、そこから始まるのです。

2004年8月8日日曜日

ビデオ鑑賞『朝日のような夕日をつれて'97』と『攻殼機動隊 - GHOST IN THESHELL -』

昨夜、以前から友人に借りていた第三舞台の『朝日のような夕日をつれて'97』のDVDを見ました。と言っても飛ばしながらですが。
学生の頃、『~'91』を演劇部で上演しようとしたことがあったのですが、他のメンバーとの温度差があり過ぎて中止。部を辞めるきっかけにもなりました。
実は、ビデオ以外で第三舞台の芝居を見たことはありません。この『朝日~』も台本で読んでいただけでした。でも、なんか良いと思ったんですよね、当時は。
DVDとは言え改めて見てみると、当時、鴻上が後書きなどでぼやいてた先輩演劇人のダメ出しと言うのが良くわかる気がします。役者の力だけで時間を成立させていく。それも極めてテンポ良く。それが得てして表層的な疾走感を狙っただけの何も残らない表現に見えやすい。
これは野田やつかの芝居にも言える気はします。
ただ、当時(そして今)の"現在"を的確に表現しようとしたとき、これはありだろうなとも思いました。あの日、あの時、あの場所を共有できた人達に取っては、あれは特別なものになり得たと。
そして演劇は、結局その日、その時、その場所でしか存在し得ない物なのだから、そういう意味で言うなら実に演劇的な演劇であるとも言えるでしょう。
ただまあ、あまり好みじゃなかったみたいです。すごいなあとは思うけど。

数日前に高校生の頃にはまった『オネアミスの翼』を観ました。
懐かしかった。惜しむらくは、パソコンの小さいウィンドウだったことですが。
一時期、これを観て宇宙飛行士になろうとか本気で考えた物でした。学力が追い付かなくて辞めましたが。
思えばあの頃から、未来の目標に乏しい人間でありました。

あと、『攻殼機動隊 - GHOST IN THE SHELL -』も観ました。
リアルタイムで見た当時は、士郎世界と押井世界の融合だ!と感じて感動したものでしたが、改めて見ると、どっちかと言うと原作のダイジェストに終止した作品だったのだなと思いました。
あまり押井っぽくない。そして原作にある言葉やシーンを割とそのまま大目に使っている。
継ぎ接ぎの仕方がそれなりのレベルなので良いのですが、『紅い眼鏡』や『御先祖さま萬萬歳』、『人狼』などに見る押井美学とでも言うべき物は影を潜めてる感じがしました。

昔見た、それも結構当時熱狂的に見たものを改めてみると、新しい発見があって面白いです。
でも、一抹の寂しさも感じるのは、感傷でしょうかね…。