2007年12月16日日曜日

『ドリームアゲイン』日本テレビ系

『ドリーム☆アゲイン』日本テレビ系

本日最終回。
ドラマの基本骨子は、
反町扮する巨人のホームランバッター小木が落雷で急死。でも天使の田中の計らいで朝比奈というファンド会社の社長の身体に乗り移って人生をやり直させてもらえることになる。
朝比奈の身体と状況の中で、小木の心を抱えながら、いろんな事情をあれこれしながら周囲の人々とつながりながら「もう一度東京ドームのバッターボックスに立つ」という夢の実現を目指す。

と言う話。

最終回はこんな話。
巨人への入団テストに合格するが、時同じくして朝比奈の娘が危篤になる。
朝比奈=小木は、自分を生き返らせた田中に自分が身代わりになるから娘を救って欲しいという。
それは受け入れられる。
最後の瞬間が来て、朝比奈=小木は死ぬ。
その代わり一度息を引き取った娘が復活する。
田中に「生き返らせてくれたありがとうと感謝を伝え、死の世界に行こうとすると田中が小木の魂を落雷で死んだ瞬間に戻す。


反町がホームランバッターと言うのは無理がある気がする。
それはともかく、こういった話は割と好き。
だが、最後の最後死んだ瞬間に戻ると言うのは、ドラマにはありがちだがちょっと安易な気がする。
あのまま本当に終わってたら涙が止まらなかったかも。

『立喰師列伝』押井守

晴れ 数日前の予報では雪だったが外れた

11時頃 家族でたこ焼き。20個×5回半。たぶん40個位は私が食べた。水は1.5リットル近く飲んだ。
KIRINスパークリングホップ350ml 144kcal、ポテトチップスコンソメパンチ10g約50kcal。

◆『立喰師列伝』
監督:押井守

ようやく観れた。
押井ファン以外にはこれは無理だろう。楽しむのは。

ドキュメンタリー風なフィクション。
綿密な虚構を積み上げていくことによる仮想現実の構築。
虚構であることが現実によって批判されることが良くある(「結局フィクションでしょ?」)が、しかし、現実に起こったことを(自らが体験したことを)他人に伝えようとする過程を経た段階で、それはすでに現実そのものではない。
極論すれば、発生した時点だけが現実であり、人がそれを物語ろうとする時それは全て虚構であると言える。
問題なのは、そのあらゆる虚構がそれを受け止めた人間に何を感じせしめるかである。

で、本作。
“立喰師”という存在は押井守のオリジナルであろう。
(仮に現実に存在したとしても巷間に囁かれることが無い時点で虚構に近い存在である。)
この立喰師達を通して表現されたこのドキュメントは、「“時代”と“虚構のあり方”の変遷」を表現したものだと私は感じた。
と同時に、虚構のあり方の変遷を通して、変わることの無い虚構と現実の距離を示そうとしたドキュメントだろうと。
でも、そのための道具立て、虚構をもう一つの現実として成立せしめるための様々な努力が、押井ファンには堪らないが、一般の人には邪魔になるように思う。

虚構をもう一つの現実たらしめるためには、その世界のルールを受け入れなければならない。
そのルールが感覚的に駄目な人に、この作品を楽しめというのは酷だと思う。
かつて『犬狼伝説』のコミカライズに載っていた押井守と藤原カムイのインタヴューで、押井守が「犬の話はやらせてもらえるけど、だったら立喰師の話だって良いじゃないか。」という趣旨の話をしていた。
もう15年近く前の話だが、それが実現したと言うわけだ。そういう意味では感慨深いものがある。
CGの乱用による実写と特撮、アニメーションの混生した映像表現の世界の変化が、アニメを知的輸出物に、押井守を世界のOSHIIにし、それがこの企画を実現せしめたと言う意味では、時代の流れを強く感じる。

この先、映像はどこに行くのだろう。あるいは表現は。

2007年12月15日土曜日

大阪王将 仙台中田店

曇り時々雨 風時々強し
朝 チーズ付きパン×2枚 微糖缶コーヒー17kcal
昼 カップヌードルMISO 398kcal 缶コーヒー33kcal
夜 大阪ちゃんぽん麺、ハーフ炒飯、餃子5個。ワイン数杯。

大阪王将 仙台中田店に行ってきた。

以前昼時行った時には、だいぶ待たされたが、20時近くだったためか待たずに入店。
パッとメニューを開いた時、“ちゃんぽん”の字が目に飛び込んできたため大阪ちゃんぽん麺の炒飯セットを注文。妻は鶏塩ラーメンのセット、息子壱はあっさり中華麺のセットを注文。それと大阪王将と言えば外せない元祖焼き餃子を2人前注文。

息子弐が水を飲んで「うぉ!んまいねぇ!」といつものグルメ批評。確かに美味い。
それなりの水なのか、結構良い浄水器を使っているらしい。

しばらくして大阪ちゃんぽん麺のセットが来る。
麺は細麺。小さめに刻んだ野菜たっぷりのとろみのあるスープが良く絡んで美味い。思ったほど脂っこくない。野菜好きな息子弐もスープを撒き散らしながら集中して食べている。

炒飯もちょっと感動的な美味さだった。
ふわふわっとしていて口に入れるとピリッとこしょうが利いている。

その後、他のメニューも続いて出て来る。
餃子は、表面はカリッ中はふわっとしていて美味い。
妻の頼んだ鶏塩ラーメンも少しもらった。生姜の利いた塩味スープが美味かった。細麺にはこっちの方が合うかも。
セットメニューと餃子で満腹。

自分の食欲にちょっと意外。弱くなったと言う点で。
以前はこの量では満足できなかった。
食事を気にしている事も大きいかもしれない。

食事の後、ドン・キホーテ仙台南店に行く。
なかなか買う機会がなかったスケジュール手帳を買う。
見開き1週間タイプ。一日分の記載スペースが広いもの。これまで使ったことがないので使ってみることにする。
葬儀の仕事を辞めてからはスケジュール管理の必要ない生活だったことと、100円ショップの手帳を試してみて使い物にならなかったためスケジュール手帳は使っていなかった。
ここ数ヶ月Googleカレンダーを使ってみたが、感覚が古いのかなんか納得いかない。
手に収まり、書き込みやすく、修正しやすく、検索・閲覧しやすいと言う点で、まだまだ手帳の方が上だ。
携帯電話、PDAなどの携帯デバイスはまだまだだと思う。進化して欲しいとは思うが。
…iTouchはどうやろか。iPhoneは?…気になる。
でも高いしなー。

2007年12月11日火曜日

『幽霊』イプセン 岩波文庫

晴れ 微風

朝は食パン2枚、バター。
昼ははるさめヌードル肉味噌191kcal、コーンサラダ101kcal、青じそドレッシング22kcal。缶コーヒー1本33kcal、微糖1本13kcal。
夜は牡蠣ポン酢100g位。野菜多めのもつ煮1杯、ご飯、味噌汁、もつタレ焼150g位。ワイン数杯。

◆『幽霊』イプセン 岩波文庫

読了。
イプセンは『人形の家』以来。戯曲を読むのは、いつ以来だろう。

しきたりや常識にがんじがらめになった田舎町の悲劇。
現代日本では成立しにくいだろうか。そんなことは無いような気がする。
自由とか夢とかいう名の束縛が蔓延しており、「自由でなければ人にあらず」といった感覚に右往左往している人が多いと思う。と同時に昔からの常識をことさらに大事にしようとする人も多く、「自由にあらずば…」の影で暗躍しており、がんじがらめの度合は、イプセンの時代と比較しても変らないと思う。

物語の中で改革派的な位置づけにあるのは未亡人アルヴィング婦人だが、彼女とて完全な改革派ではなく、様々なものに足をとられ感覚を曇らされながら、進む様は、行くとこまで行った感のある現代日本人の視点から見てもリアルだと思う。
息子のオスヴァルが遺伝性の脳軟化症で急死して物語が終わるというのは、終わらせ方としては正直ちと微妙な気がするが、病気、遺産、妾腹の子、その他諸々、放蕩な旦那が残して行ったあらゆるものを幽霊と表現する意味では面白いと思う。

『人形の家』を読んだ時にも感じたが、今でも十分通じる物語だと思う。そのまま使うわけには行かないが、骨子を元に現代版にする価値はあるのでは?

2007年12月10日月曜日

『シッダールタ』ヘッセ 新潮文庫

晴れのち曇り やや寒し

朝・昼兼用ですき焼き風煮物、ご飯、味噌汁、納豆、沢庵
夕方おやつ代わりにチャーハンどんぶり大盛一杯を息子等と一緒に食べる
夜たこ焼き器でたこ焼き。焼き方は妻と息子壱。20個位を5回分位。半分近く食べる。ワイン数杯。

◆『シッダールタ』ヘッセ 新潮文庫

ヘルマン・ヘッセの作品はこれで3冊目。『デミアン』、『クヌルプ』、んでこれ。

最初てっきり、手塚冶虫の『ブッダ』みたいなお釈迦様の一代記的な作品だと思っていたのだがさにあらず。
お釈迦様と同じ名前を持つ青年が友人と共に出家し修行の果てに仏陀に会う。
友人は仏陀に弟子入りするが、「悟りは師から受け継ぐものではなく、自ら体得することしか出来ない。」と直感したシッダルータは、仏陀を真の覚者と感じながらもそこを経ち自ら俗な世界にに身を投じる。
遊女を師とし、商人をパトロンとし、バラモンとしての意識を持ちつつ、日々の生活の中で享楽をむさぼり続けるシッダールタはその果てに、それら全てに嫌悪を抱き、川辺で自殺を図るがその時悟りを得、生まれ変わる自分を感じる。

その川の渡し守に弟子入りし、川を師として生活を続ける中で、かつて師とした遊女と自分の子をめぐり、肉親の愛と絶望を知り、その中で新たな悟りを得る。

そうした生活の果てに、かつて分かれた友人と出会う。友人はいまだに本当の悟りを得ることが出来ず悩み続けていた。
どうすれば悟りに至れるのかと問う友人に、シッダールタは口付けをする。
すると友人の目に、シッダールタはあらゆる人あらゆる生物あらゆる物質の過去現在未来あらゆる時間のあらゆる状態として映り、千変万化する世界にあって、変わらぬ真我の相を見せる。
シッダールタは本物の覚者となってそこにあるのだった。

『デミアン』も『クヌルプ』も、どちらかと言えば“悟りを求める者も生活の中で埋もれ野垂れ死にしていく”的な話だったが、それに比べると、ある意味ハッピーエンドな物語だと思う。
かつて『デミアン』を読んだとき、結構衝撃を受けたが、それはその当時の(大学卒業直後)自分の状況にあっていたからだと思う。あの当時の私が『シッダールタ』を読んで果たして理解できただろうかとは思う。読む人のそれまでの体験のよって汲み取られる内容にだいぶ差が出てくるような気がする。

新しい生活の中で新しい悟りを得ようとし、それを進める中でその生活に飲み込まれ、古びたことに気が付くことなく自分を嫌悪し感覚が腐敗し、自殺を考える…なんていう人間は今は履いて捨てるほどいる。
自分探しブームはだいぶ落ち着いたがその当時熱に浮かされて自分探しに勤しんでいた人々が、今直面していることなんではないだろうか。そこで、そうである自分を切り捨てて悟りを得ることが出来る人間はどれだけいるのだろうか。

覚者になることは難しくない。
だが、覚者であり続けることは難しい。

堕落することで真の悟りを得るというテーマは、坂口安吾の『堕落論』の主張にも通じるが、言うは易く難しいよ。
かつて自分自身演劇を人生の最大のテーマとしていた時期があった。その当時、全ての人に、そしてなにより自分自身に「演劇が全てだ。演劇をやめた時は死ぬ時だ。」と言い続けていた。
それが今、自分自身に返ってきている。自分自身が自分自身を否定している。
かつては明晰で透明だった感覚が、いまでは濁り、鈍り、べたついている。これを何とかしたいけど、どうにもならない。

そんな中で読むには、ある意味酷な本だった。
最後に、これ日本語訳のセンスが悪い。
ヒトラーの『わが闘争』ばりにわかりにくい。
元々が難解なのかもしれないが、文章に愛情が感じられない。何とかならんもんかね。

2007年12月9日日曜日

『義経幻殺録』井沢元彦 角川文庫

本日小春日和 風ほとんど無し

朝・昼兼用ですき焼き風煮物、ご飯、味噌汁、沢庵数枚と梅干2個+紫蘇
夜は鶏手羽のにんにく醤油焼き×5+ご飯、味噌汁
間に缶コーヒー×2、沢庵×3枚

図書館に行き、
・『義経幻殺録』井沢元彦 角川文庫
・『シッダールタ』ヘッセ 新潮文庫
・『幽霊』イプセン 岩波文庫
・CD『立川談志プレミアムベスト6巻◆勘定坂◆五貫裁き』
・CD『落語名人全集 古今亭志ん生◆大工調べ◆寝床◆文違い』
をそれぞれ借りた。

◆『義経幻殺録』井沢元彦 角川文庫

早速4時間で読了。
読み易い。井沢元彦は以前『炎立つ』を読みかけて読みにくくて駄目だった。忙しかったこともあるが。

芥川&明智という組み合わせは思いつかんかった。
だが、芥川は、よくある写真の芥川のイメージだとどうしても動かない。
一度漫画に書き換えたイメージで想像するとやっと動く。
これは漫画文化に毒されたせいか。

とまれ。

井沢元彦は歴史文学的な人という思い込みがあったが、実は結構奇伝的な人だったらしいというのが最大の発見だ。
読み易いというのはこういう作品ではけして欠点ではないと思う。芥川やその他の登場人物のキャラクター付けが固まらない状態のまま読み進めたが、あんまり気にならない内、物語に集中していた。
世界観としては夢野久作、久生十蘭辺りの、あるいは高橋葉介の漫画や栗本薫の小説などの世界観だと思うのだが、そういった作品に比べるとだいぶ軽い感じではある。
久生十蘭『魔都』のような感じを求めるとたぶん納得できないと思うが、あくまでエンターティメント作品としてみるとこれはこれで良いと思う。歴史書がキーとなる辺りが井沢氏らしい。

2007年12月8日土曜日

『サーカス』チャーリー・チャップリン

◆『サーカス』
監督:チャーリー・チャプリン

久しぶりに観た。スカパーのシネフィル・イマジカでやっていた。

初めて観た時は中学生。姉がNHKで深夜にまとめてやっていたのをビデオに録画していたのを見た。
次に観たのは大学の時。それ以来だから15年ぶりか。

最初の曲の歌詞にグッと来てしまったのは歳を取ったからだと思う。

「さあお嬢さんブランコを漕ぎなさい。虹をつかもうと思うなら下を見てはダメだ。」

トーキーの勃興期に、どこまでもサイレントにこだわったチャップリン。この最初の曲が沁みるのは、サイレントだからということもあると思う。

3分の1を観た所で息子壱にチャンネル権を奪われたが、そこまでは息子壱(9歳)も息子弐(2歳)も夢中になって観ていた。
情報を排除することによって成立する表現は、それゆえに?言葉や論理で飾れないゆえに、直感的に子供にも面白さは伝わるのかもしれない。(もちろん同時につまらなさも伝わるだろうが。)今度、昔録画しておいた奴を観るのを付き合せよう。

2007年12月7日金曜日

宗教の現代的意義

問われる「医は煩悩か」:YOMIURI ONLINE

生きたい=死にたい=生かしたい=殺したい=その他諸々…

“?したい”は全て煩悩。医療の根幹が崩れた生命体のバランスを均衡にすることと考えるなら、それは宗教と一緒。均衡に“したい”のなら煩悩だ。
だが、大脳という肥大した器官を持つ人間は、何も考えずにその時その時に即して生きるのが困難だ。考えることは生きることと一緒ではないが、人間にとっては同じぐらい重みのあることだ。

とまれ。

ぬでじま氏の「やりたいことは何でもやる、というのが科学の精神であり(後略)」という言葉はその通りだと思う。
この言葉は「“宗教”=“戒律を守ることによる欲望のコントロール”でありそれに対して科学は…」という考えから出ているのだろう。
しかし、宗教と科学は対立項で考えるべきものだろうか。

“悟る”、“知る”、“感じる”は宗教において重要な要素であり、“観察”、“実験”、“分析”が重視される科学となんら変わりない。
また、一つの理論に固執して現実を見誤る科学者は狂信的な宗教者と一緒?これまでの歴史の中で、宗教と科学は渾然一体としたものであったし、これは今でもそうだと思う。
強いて言えば多くの科学者と宗教者の間で「我々は別物だ」という意識を持っているから別物として認識されているだけだと思う。

別に「陰陽五行で言う所の陰陽とは電子と陽子である。」みたいなことを言いたいのではない。本来同類項のものを別物だと切り分けていると、その隙間が「科学と宗教は一つだ、だから私達の考えは正しい!」と語る狂信的な集団が生まれる土壌となる。
宗教も科学も互いを切り分けず拒否せず、でもお互い妄信せず取り込むことは、既存の宗教にとっても科学にとってもプラスになりこそすれマイナスにはならないと思うのだ。
「医は煩悩か」と意見した科学者は「医は穢れた排斥すべきものなのか」という意味をこめて言ったのだと思うが、煩悩を穢れと見る見方は仏教の本筋の見方ではないと私は考えている。
(むしろ神道的な考えが混じったものだと思う。)

仙台の北山五山の一つ東福寺派東昌院のご住職から聞いた話を私なりに解釈するとこうなる。
この世界は刺激に満ちており、楽しいも哀しいも苦しいも嬉しいも、あらゆることが刺激である。
生きている以上刺激から隔絶しては存在できない。
一方、死ねば刺激は感じない。大安心大安楽の状態になる。修行しなくてもそうなる。

だとしたら何故命はこの世にあるのか?それはこの刺激を味わうためだ。
スリルとエロスと爆笑のエンターティメントの映画を見るように私達はこの世界に生まれてくる。
煩悩はつまり刺激だ。あらゆる刺激が煩悩だ。

しかし、生まれた瞬間から死ぬまで煩悩に囲まれて暮らしていると、それに慣れてしまう。それだけが全てだと感じてしまう。そうなると生きること自体が辛くなる。

そこで、宗教が意味を持つ。
宗教的なものを通してこの世に来る前、あるいは去った後の状態。大安心、大安楽の状態に近い状態を感じることが出来ると、この世界が、自分が何気なく見聞き感じていた世界が、実は多種多彩な煩悩=刺激に満ちた世界であると悟ることが出来る。と同時に生きている意味、死ぬ意味を悟ることが出来る。
仏教は、成仏するためのものではなく、仏の世界(刺激=煩悩の全く無い、大安心、大安楽な世界)に足を突っ込むことでこの世界を何倍も楽しむためのものなのだ。


もちろんこれが唯一の回答じゃないのが宗教=科学の奥の深いところではあるのだが。
刺激に満ちた世界を刺激の分析から探るのが科学なら、そこを隔絶した世界から探るのが宗教と言えるのではないだろうか。

2007年7月15日日曜日

エスキモーに氷を売る

この本の名前を聞いたのは、今は無き某ディスカウントストアの店員をやっていたころです。(奥付きを見たら2000年発行になってました。)

その当時は、今以上に経済活動に対して反発を持ち頭が硬かったので、正直この書名を見てかなり引いたことを覚えてます。

豊富な氷に囲まれた人々に氷を売る。これって詐欺師の話と何が違うのだ?

でも、実際読んでみたら結構面白かったです。

この本を書いたジョン・スポールストラは、バスケットボールチームの経営を歴任し、現在もスポーツ・エンターティンメンと世界で活躍している経営者で自称アメリカスポーツ界に初めて本格的なマーケティング手法を採り入れた人物です。

ニューヨークの隣に位置するニュージャージー州は、人口や経済規模から言ってもアメリカ全体で8位くらいにくる州でありながら、そこの人々の多くはニューヨークに仕事を持ち、TVもラジオもニューヨークの放送局のものを見聞きし、心情的にもニューヨークの文化圏にいると感じている人が多いところだそうです。

日本でいえば東京に対する神奈川、埼玉、千葉などに近いでしょうか。

ここにホームを置くプロバスケットボールチーム、ニュージャージー・ネッツを立て直した施策を紹介しつつ、その根底にあるマーケティング的な手法を説明するのがメインテーマとなっています。

曰く「多くの原則を実行するなら、エスキモーの人たちに氷を売り込むことさえ可能だろう。」

で、最初の私の反感につながるわけですが、その反感の根底には日本古来の「商人道」の考え方があるように思います。

(これ「商道」と書くと韓国ドラマに…)

“ お客様に喜んで納得して買ってもらおうとする心を持って、品物(商品)には常に心を込めて気を配り、売買することで経済原則にふさわしい適正利潤を得るようにすれば、「福を得て、万人の心を案ずることができる」”

と言う考え方ですね。

石田梅岩と石門心学http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/ishida.html

これに対し、この本では本文の1行目の言葉で次のように語っています。

“私たちのほとんどは、最高の商品を、最大の広告予算を使って、最良のマーケットに売り込み、最大のシェアを獲得するというチャンスには、まず出合えない。”

バブル崩壊→不景気とデフレ→実感のない好景気という時代の流れの中でアップアップしている人間には、正直後者の方がリアルであると言わざるを得ません。だって、パーフェクトな物でなければ売っちゃダメなら、多くの人は職を失い、生きていくことは出来ません。

実際、書かれている様々な手法は役に立つ物です。

明日からでもすぐ仕事に生かせるものであり、しかし同時に道具でしかありません。

それを良く使うか悪く使うかは使う人間次第…なわけです。

私の反感は、道具の持つ可能性を倫理観から批判すると言う行為だったと言えるでしょうね。

全部読んだら、また感想を書こうと思います。