朝・昼兼用ですき焼き風煮物、ご飯、味噌汁、納豆、沢庵
夕方おやつ代わりにチャーハンどんぶり大盛一杯を息子等と一緒に食べる
夜たこ焼き器でたこ焼き。焼き方は妻と息子壱。20個位を5回分位。半分近く食べる。ワイン数杯。
◆『シッダールタ』ヘッセ 新潮文庫
ヘルマン・ヘッセの作品はこれで3冊目。『デミアン』、『クヌルプ』、んでこれ。
最初てっきり、手塚冶虫の『ブッダ』みたいなお釈迦様の一代記的な作品だと思っていたのだがさにあらず。
お釈迦様と同じ名前を持つ青年が友人と共に出家し修行の果てに仏陀に会う。
友人は仏陀に弟子入りするが、「悟りは師から受け継ぐものではなく、自ら体得することしか出来ない。」と直感したシッダルータは、仏陀を真の覚者と感じながらもそこを経ち自ら俗な世界にに身を投じる。
遊女を師とし、商人をパトロンとし、バラモンとしての意識を持ちつつ、日々の生活の中で享楽をむさぼり続けるシッダールタはその果てに、それら全てに嫌悪を抱き、川辺で自殺を図るがその時悟りを得、生まれ変わる自分を感じる。
その川の渡し守に弟子入りし、川を師として生活を続ける中で、かつて師とした遊女と自分の子をめぐり、肉親の愛と絶望を知り、その中で新たな悟りを得る。
そうした生活の果てに、かつて分かれた友人と出会う。友人はいまだに本当の悟りを得ることが出来ず悩み続けていた。
どうすれば悟りに至れるのかと問う友人に、シッダールタは口付けをする。
すると友人の目に、シッダールタはあらゆる人あらゆる生物あらゆる物質の過去現在未来あらゆる時間のあらゆる状態として映り、千変万化する世界にあって、変わらぬ真我の相を見せる。
シッダールタは本物の覚者となってそこにあるのだった。
『デミアン』も『クヌルプ』も、どちらかと言えば“悟りを求める者も生活の中で埋もれ野垂れ死にしていく”的な話だったが、それに比べると、ある意味ハッピーエンドな物語だと思う。
かつて『デミアン』を読んだとき、結構衝撃を受けたが、それはその当時の(大学卒業直後)自分の状況にあっていたからだと思う。あの当時の私が『シッダールタ』を読んで果たして理解できただろうかとは思う。読む人のそれまでの体験のよって汲み取られる内容にだいぶ差が出てくるような気がする。
新しい生活の中で新しい悟りを得ようとし、それを進める中でその生活に飲み込まれ、古びたことに気が付くことなく自分を嫌悪し感覚が腐敗し、自殺を考える…なんていう人間は今は履いて捨てるほどいる。
自分探しブームはだいぶ落ち着いたがその当時熱に浮かされて自分探しに勤しんでいた人々が、今直面していることなんではないだろうか。そこで、そうである自分を切り捨てて悟りを得ることが出来る人間はどれだけいるのだろうか。
覚者になることは難しくない。
だが、覚者であり続けることは難しい。
堕落することで真の悟りを得るというテーマは、坂口安吾の『堕落論』の主張にも通じるが、言うは易く難しいよ。
かつて自分自身演劇を人生の最大のテーマとしていた時期があった。その当時、全ての人に、そしてなにより自分自身に「演劇が全てだ。演劇をやめた時は死ぬ時だ。」と言い続けていた。
それが今、自分自身に返ってきている。自分自身が自分自身を否定している。
かつては明晰で透明だった感覚が、いまでは濁り、鈍り、べたついている。これを何とかしたいけど、どうにもならない。
そんな中で読むには、ある意味酷な本だった。
最後に、これ日本語訳のセンスが悪い。
ヒトラーの『わが闘争』ばりにわかりにくい。
元々が難解なのかもしれないが、文章に愛情が感じられない。何とかならんもんかね。
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