2007年12月7日金曜日

宗教の現代的意義

問われる「医は煩悩か」:YOMIURI ONLINE

生きたい=死にたい=生かしたい=殺したい=その他諸々…

“?したい”は全て煩悩。医療の根幹が崩れた生命体のバランスを均衡にすることと考えるなら、それは宗教と一緒。均衡に“したい”のなら煩悩だ。
だが、大脳という肥大した器官を持つ人間は、何も考えずにその時その時に即して生きるのが困難だ。考えることは生きることと一緒ではないが、人間にとっては同じぐらい重みのあることだ。

とまれ。

ぬでじま氏の「やりたいことは何でもやる、というのが科学の精神であり(後略)」という言葉はその通りだと思う。
この言葉は「“宗教”=“戒律を守ることによる欲望のコントロール”でありそれに対して科学は…」という考えから出ているのだろう。
しかし、宗教と科学は対立項で考えるべきものだろうか。

“悟る”、“知る”、“感じる”は宗教において重要な要素であり、“観察”、“実験”、“分析”が重視される科学となんら変わりない。
また、一つの理論に固執して現実を見誤る科学者は狂信的な宗教者と一緒?これまでの歴史の中で、宗教と科学は渾然一体としたものであったし、これは今でもそうだと思う。
強いて言えば多くの科学者と宗教者の間で「我々は別物だ」という意識を持っているから別物として認識されているだけだと思う。

別に「陰陽五行で言う所の陰陽とは電子と陽子である。」みたいなことを言いたいのではない。本来同類項のものを別物だと切り分けていると、その隙間が「科学と宗教は一つだ、だから私達の考えは正しい!」と語る狂信的な集団が生まれる土壌となる。
宗教も科学も互いを切り分けず拒否せず、でもお互い妄信せず取り込むことは、既存の宗教にとっても科学にとってもプラスになりこそすれマイナスにはならないと思うのだ。
「医は煩悩か」と意見した科学者は「医は穢れた排斥すべきものなのか」という意味をこめて言ったのだと思うが、煩悩を穢れと見る見方は仏教の本筋の見方ではないと私は考えている。
(むしろ神道的な考えが混じったものだと思う。)

仙台の北山五山の一つ東福寺派東昌院のご住職から聞いた話を私なりに解釈するとこうなる。
この世界は刺激に満ちており、楽しいも哀しいも苦しいも嬉しいも、あらゆることが刺激である。
生きている以上刺激から隔絶しては存在できない。
一方、死ねば刺激は感じない。大安心大安楽の状態になる。修行しなくてもそうなる。

だとしたら何故命はこの世にあるのか?それはこの刺激を味わうためだ。
スリルとエロスと爆笑のエンターティメントの映画を見るように私達はこの世界に生まれてくる。
煩悩はつまり刺激だ。あらゆる刺激が煩悩だ。

しかし、生まれた瞬間から死ぬまで煩悩に囲まれて暮らしていると、それに慣れてしまう。それだけが全てだと感じてしまう。そうなると生きること自体が辛くなる。

そこで、宗教が意味を持つ。
宗教的なものを通してこの世に来る前、あるいは去った後の状態。大安心、大安楽の状態に近い状態を感じることが出来ると、この世界が、自分が何気なく見聞き感じていた世界が、実は多種多彩な煩悩=刺激に満ちた世界であると悟ることが出来る。と同時に生きている意味、死ぬ意味を悟ることが出来る。
仏教は、成仏するためのものではなく、仏の世界(刺激=煩悩の全く無い、大安心、大安楽な世界)に足を突っ込むことでこの世界を何倍も楽しむためのものなのだ。


もちろんこれが唯一の回答じゃないのが宗教=科学の奥の深いところではあるのだが。
刺激に満ちた世界を刺激の分析から探るのが科学なら、そこを隔絶した世界から探るのが宗教と言えるのではないだろうか。

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