坂口安吾の『堕落論』の中に、妻子持ちは特攻隊になかなか選ばれないという話が出ています。妻子から引き離すのが可哀想と言うわけではなくて、妻子に気が残って任務を完遂することが出来ないだろうからというのがその理由だったとか。
それに対して安吾は妻子持ちとそうでない男性と、人間的にどんな違いがあるのだろうか、そういう考え方をして疑わないところに本当の進歩を阻む原因がある。堕落せよ。と論じている。
"妻子持ち"と"懦弱"をイコールでつなぎ、やはり妻子持ちより独身の方がいざと言う時覚悟を決めやすいと考える考え方は、ある面では正解かも知れない。(現代ではそうでもないかも知れない。)
しかし、では独身男性でも恋人があるひとは?あるいは、「妻子を守るためなら!」と考える既婚男性は?個別の事情を考えていけば、既婚か独身かと言う基準は、所詮レッテルに過ぎないことがすぐわかる。にもかかわらず、こういったレッテルによって物事を単純に済ませる思考法は、いまだに根強いのではないだろうか。
安吾の言う堕落とは、ただ酒を飲んだり博打をしたり女を抱いたりというようなものではなく、むしろもっと宗教的なもののように感じる。
私自身、昔から好きな言葉に浄土真宗の宗祖親鸞の「善人なおもて往生をとぐ。云わんや悪人をや。」と言う言葉がある。昔は単純にその逆転の発想的な部分が好きだったのだが、安吾の堕落とはこの言葉に象徴されるものではないかと思う。
往生とは、阿弥陀如来に帰依することで、死後西方極楽浄土に生まれ変わらせていただくことを指す。善人が往生できるなら、悪人が往生できるのは当り前だというわけだ。それは、善人(と、自他ともに認める人)は、往生疑い無しだと思っているから阿弥陀さまに帰依する心が無意識に弱くなる。だが、悪人(と、言われる人)は自分が罪深いから往生は出来ないとあきらめ、あるいは恐れているから、そこから救っていたくださる阿弥陀さまへの帰依の心は、善人よりはるかに強い。というわけ。
平和な生活、安逸な日常、あるいは普通の人生というものには、レッテルで単純化してある部分がたくさんあり、自分自身がそのレッテル文化に安心してしまえば、もうそこから新しく生まれることも進歩することもない。真の表現はけして生まれない。
だから、日常を疑い、普通を疑い、平和を疑い、自らの安逸に流れる心を打ちすえ、壊すことが真の堕落で、ただダラダラと酒に溺れたってそれは真の堕落ではないのだ。
大学生のとき、大学生協で買った『堕落論』ではまり、その後十年、自分の生活の指針にしてきたのだけど、二年くらい前に読み直して、もう自分がその暑さに耐えられなくなっていることに気がついて悲しくなって読むのを止めた。
今朝起きたら急に、もう一度読み直したいと思った。
世界は堕落している。でも真の堕落ではないようだ。レッテルを剥して新たなレッテルと貼って、ますます分厚いかさぶたになって真実が見えなくなっている。私の目にも知らぬ間に「もう既婚者だし」のレッテルが貼りついていたように思う。
真の堕落をしよう。
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