2004年8月10日火曜日

オタクの境界線

パソコンの音回りの調子がおかしくなりました。
モジュールはちゃんと組み込まれてるし、スピーカを変えても変わりなし。
さんざんいじり、治らず、今朝改めて立ち上げると治ってました。
なんだったんだ。
チェックのため、手持ちのMP3ファイルをかけてると、妻が嬉しそうに
「エヴァンゲリオン?(ニヤニヤ)」
と効いて来ました。
私がオタクなのがそんなに嬉しいのか。(T T

ところで、オタクであることを忌避する想いが強いのは、たぶん境界線上にいる人間なのだと思う。
これは、先日読んだばかりの『の境界』にも書かれていたことなのだが。
沖縄、北海道、台湾や朝鮮の人々は"日本人"に編入された歴史を持つ。その際、問題の焦点になったのはまさに、どこに"日本人"の境界線を引くかと言う点だった。
国家は税収や兵力のために、出来るだけ多くの人々を国民とし、多くの土地を国土として国家に編入したい。
でも、国民としての権利を与えることは出来るだけ少なくしたいというアンビバレンツな欲望がある。
そして境界線上にいる人々もまた、その欲望に翻弄される。
国民としての権利を得るために、国民の義務を喜んで負い、国民として既に認められている人々以上に国民らしくあろうとする。
また、国民らしくあることを少しでも忌避する人々は、それがゆえに、国民としての権利の一切どころか人間としての権利すらも諦めなければならなくなる。
そして、その闘いの中でも、結局は引かれた境界線に翻弄されざるを得ない。

オタクの境界線にいる人々は、オタクであると馬鹿にされることを忌避するならば、自らがオタクであることを否定するために、よりオタク的な様々な見方考え方、知識や技術を隠し、他のオタクの人々をまるで悪逆非道な奇人の様に差別しなければならない。
だが一方で、好きな世界を少しでも堪能したいと考えるならば、「オタク」として差別されることを甘んじて(あるいは安んじて)受け入れなければならない。

最も問題なのは、境界線を引かずにいられない人の心のストレスであり、境界線を引くことを前提としない関係性の在り方を求めることだ。
だが、その道はあまりに曖昧模糊としていて進みにくい。
前述のエヴァンゲリオンにしても、当初、自分と他者との境界線の引き方の話であり、かつその概念を突破するための物語でもあった。(結局腰砕けになってしまったわけだが。)
どうしたら、境界線の問題を解決することが出来るのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿