2004年8月3日火曜日

自己完結

先日借りた村上龍の本に、「日本人ほどオナニーの好きな民族はいないってこと。」という言葉がありました。
日本人は細かい差異を楽しむ民族である。それはセックスに対してもそうであり、それが新聞や雑誌の膨大な種類の風俗店の広告などに表れているというのです。他国では、これほど様々な"抜き屋さん"は存在しないんだとか。
そして、その多様さは、結局、己にとって理想的なセックスを一方的に(他人の手を借りて)実現することへの欲求から生まれてます。
これは他者とコミュニケーションをとることを苦手とする日本人の性質から生まれており、そして、このコミュニケーション不全性が、黒船以降の日本の"外国"に対するアレルギー反応に(過剰な反発や、無条件の受容、降伏)つながっているという話につながっています。
コミュニケーション不全症は現代病ではありますが、日本人が古代から持ってきた民族的特性でもあるというわけです。

日本人は歴史的に、様々なものを平和に取り込み飲み込み合成融合してきたと言われています。
これは、いわゆる日本特有の「玉虫色の解決」の結果です。
無批判に取り込んだように見え、実は表面的な部分だけを取り込んで、根本的な(これまでの在り方と衝突する)部分をあえて無視することで過去との衝突を避け、新しい装いにすることで今に取り入る。
唯一無視されるのは未来。
未来-こうあるべきと言う理想的な姿を強く持ち出せば、それは他者との強い対立を余儀なくされます。それは"これまで"への攻撃とみなされます。
だから、未来、夢を語るものは嫌われてきました。
なんか、私自身、そういう部分が強くあるので嫌になります。

自分を保ちつつその欠点を冷静に見つめ、他者の意見を分析しつつ必要に応じて臨機応変する。そんな在り方が出来たらと願わずにいられません。
学生時代に、演劇部の先輩が「俺はもう十分やり尽くしたから」と言ってさっさと退部した時、何言ってんだ、と思ったものですが、あの時の先輩は今頃それなりの仕事やそれなりの家庭生活を営んでいるのでしょう。
考え様によっては、あの先輩の方がしっかり未来を見ていたと言えるのかもしれません。
芝居に浸っている時、その今しか考えられないということは、今に阿ることでしかないわけです。
でも、そこにだって、戦う余地はある。あの頃も今も、私は捕え所もない創作の世界の中に、魅力を感じていたし、そこで彷徨い野垂死ぬ覚悟もあるつもりでした。戦う力=生きる力がもっと欲しい。
もっと、きっちり生き切りたい。

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