2013年1月4日金曜日

映画『麒麟の翼 ~劇場版・新参者~』

東野圭吾原作の推理ドラマの映画版をテレビで観ました。

推理の構築の流れ自体は面白く、十分楽しめたのですが、クライマックスに行くにしたがって違和感を感じる場面が増えてきたのは残念。


例えば主犯の動機、というかきっかけがあまりに衝動に偏り勝ちだったように思います。


衝動を原因にするのは良いのですが、衝動が行動に飛躍するためには、

  1. その人が置かれている状況が回避経路や代替え手段が乏しい極めて閉鎖的な状況にあり
  2. 他の方法・手段を選択する精神的・状況的余地が無い状況で、その人に対する精神的な圧力がドンドン強まって行き
  3. その人の無意識化において極めて合理的な、行動に至る経路のスイッチにあたる現象が起こる。
という流れがあると思うのです。
これがきちんと描かれていると、まあ、それはもうしょうがないよね、という共感を持って見ることが出来るのですが、逆にそこの書き込みが弱いとだんだんとうそ臭くなる。

特に無意識下の衝動に至るスイッチに当たるものの書き方は結構むずかしく、方向性に妥当性が無かったり屈折が多すぎると、ご都合主義的に見えてしまう。

“無意識化において極めて合理的”というのはおかしな言い回しに思われるかもしれませんが、意識上では「なぜ?」と思われる行動が無意識界ではつながっている場合が多いわけで、役者なんかは自分でその辺りを作りこむわけですが、小説の場合、そこをきっちり書き込むか、その存在を感じさせないと「そんなに追い詰められる状況か?」と感じてしまうのです。


また、いい人には裏が無い的な感覚が見受けられるのも違和感。
いい人ほど状況によってどこまでも残酷になってしまう可能性があるものですが、そうしたものを加味しないのは、ある意味東野圭吾らしいとも感じます。
なんというか…、登場人物も推理の材料的な扱いというか、あまり裏があるとアンフェアな感じがするからそれを避けている感じというか。情念とか怨念とかを見事に記号化している感じなのは、そういうのの絡みつきが好きな人には物足りないかも。

(そのくせ最後の辺りで教師に対し正義を語るのは蛇足というか、「最終回でキャラクターが変わる」的なものを感じました。

ただ、ありきたりな結末にまとめようとする警察上層部に対し、やんわりと軌道修正して追い込んでいく辺りは面白い。警察上層部を演じる役者さんの楽してダラダラ行こう的な演技は、阿部寛の推理マニアちっくな雰囲気を引き立てる効果を十分に発揮していて好感がもてます。

また、日本橋周辺の呪術的風俗の取り込み方も、帝都物語みたいで面白かった。
それにしても、阿部寛はいい役者だなあ。

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