2016年11月20日日曜日

読書の苦しみ

一頃、本と言えば漫画か、小説なら短編集しか読めない時期があった。
学生の頃とか、芝居をやってた頃は、分厚い本もワクワクしながら平気で読んでいたものだが、ある時期からしんどくなって、昨年くらいにまた小説を読み始めるようになるまで、少しでも長い本はダメだった。

スマホの影響はかなりある。

そう言えばインターネットの出現で集中的に情報を吟味するようなことがかえって出来なくなると言う現象を著したニコラス・G・カーの『ネット・バカ』を読んだ時、しみじみ同感したものだ。
その中でカーは、自身この本を著すのに際しインターネットから自分を遠ざける必要があったと書いていた。

短いスパンでたくさんの情報が大量に襲い掛かってくる現状が、むしろ情報を粗末に扱う原因となると言うのは皮肉な話だ。
もちろん前時代、手に入る情報が少なく、相対的にそれらに対する信頼の高さが多くの悲劇の原因となったことは確かだし、また一方、現代においてそれらの膨大な情報を活用することで悲劇的状況を回避出来た人だって多いわけだから、一概に責め立てることが出来る類いの話でもないが。

ちなみに、件の『ネット・バカ』はきちんと読み切ることが出来なかった。
私自身立派なネット・バカになっているようだ。

そんなことへの反省というわけでもないのだが、最近長めの小説などもまた読むようにしている。

きっかけはラノベだった。
暇つぶしに息子のラノベを借りて読み始め、次々と読む内に、自分でも『狼と香辛料』や『ビブリア古書堂の事件手帖』など気になる本を買って読むようになって、ようやく本を読むリハビリが出来た感じだ。

ラノベに手を出さなかったら、一層読書を忌避するようになっていたかもしれない。
だが、改めて読書を始めてみて、読書の苦しみを感じることが多いと感じるようになった。

具体的に言うと、読んでいて言葉の解釈や想像が追いつかなくなって、文章がただの文字の羅列に見えてきて、読み進めるのが苦痛になる状態だ。
まあ言ってしまえば集中力の欠如で、以前ももちろんあったのだが頻度は少なく、わずかでも「面白いなあ」と感じた作品でそういう状態になるのはまれだったが、最近では、最終的には面白かった作品でも読んでる途中でこの苦痛に苛まれて読むのを中断する、なんてことが増えた。

これは歳のせいか、はたまたブランクのせいか、あるいはネット・バカであるせいか。
たぶん全てだろう。
インプットを怠っていた罰だ。

どんな楽しみも、より楽しもうと思ったらそれ相応の努力が欠かせないものだ。
いわゆるレジャーはもちろん、ゲームだってギャンブルだってセックスだってそうだ。
自分に出来る範囲の楽しみ方で楽しむ者には、その範囲内での楽しみしか与えられない。

求めよさらば与えられん。

無理してまで楽しもうとするのはどうかとも思う。
でも私にとって、酒を飲むこと、落書きすること、雑文を書くことに並ぶ、数少ない趣味の一つに限界を感じると言うのは寂しいことだ。
この苦しみは益々増えるのだろうか。
文字を読むのも億劫なんて時を味わうこと無く、人生を終えられたら良いのにと、願わずにはいられない。

0 件のコメント:

コメントを投稿