九州に馴染みが出て以降、殊に熊本地震の後のこの時期に読むとなかなか複雑な思いにかられる。
徹頭徹尾、熊本近辺の話だ。作者の熊本LOVEな思いが溢れてる。
筒井康隆の作品をマイルドにした感じ…というのは失礼な評価だろうか。
半分読み進むまでは、思いの外長い様に感じた。この辺は時代なのかもなあと思わないでもない。
この作品が書かれたのは1999年頃で、ノストラダムスのアレがアレしてた頃。そう思うとけして古臭くはないのだが、最近読みやすいわかりやすい作品ばかり読んでいるから、ふわふわとたんたんと事態が描かれていくのに焦れてしまって、半分くらいの所で一度読むのを辞めてしまったのだ。
この作品が書かれたのは1999年頃で、ノストラダムスのアレがアレしてた頃。そう思うとけして古臭くはないのだが、最近読みやすいわかりやすい作品ばかり読んでいるから、ふわふわとたんたんと事態が描かれていくのに焦れてしまって、半分くらいの所で一度読むのを辞めてしまったのだ。
その後、改めて読み進んだのだが、読み切って良かった。面白かった。
読み終わって、何故途中で読むのが辛くなったのかを考えてみた。
最初に出てくる人を主人公と感じてしまうのは刷り込み効果の一種だと思うが、この人が割と受け身だしその割に感受性が弱い。感情が読めない。これはもちろん私の超個人的な感想で、単に私と波長が合わないというだけの話なんだけど、そこを軸にして読み進めてしまったからだと思う。
(これも読み終わってみると同族嫌悪的な物のように思う。)
最初に出てくる人を主人公と感じてしまうのは刷り込み効果の一種だと思うが、この人が割と受け身だしその割に感受性が弱い。感情が読めない。これはもちろん私の超個人的な感想で、単に私と波長が合わないというだけの話なんだけど、そこを軸にして読み進めてしまったからだと思う。
(これも読み終わってみると同族嫌悪的な物のように思う。)
一旦手を止め、改めて、“この作品は複層的な話なのだ、なぜかその人の周りに世界の深淵に関する情報が集まり使命が課せられ共感と喜怒哀楽が充満するありがちなラノベの主人公(偏見)ではなく、一人一人がその人に見える世界で生きているのが重なり合って一つの世界を描く作品なのだ”と思い返して読み直すと、一つ一つの同時並行で進む物語がわくわくしはじめ一気に読み切ってしまった。
そう言えば、昨今は黄泉がえりと言うとアンデッドとしてと言うパターンが多いような気がする。超絶能力の存在として。でその能力で押し切るみたいな。
この作品にはそういう人は出て来ない。超絶能力のぶつかり合いもない。そういう意味でもマイルドな作品と感じる。マイルドなままでも確かに大きく世界は動く。
しっかりと骨太にマイルドであることは、やはりそれもまた強い魅力なんだと実感する作品だった。
でも、これ、二十代頃にリアルタイムで読んでいたらどうだったろうか。
ここまで楽しめなかったかもしれない。
ここまで楽しめなかったかもしれない。
当時の私に熊本は遠い異国でしかなかったし、近しい家族の死も経験してなかった。
琴線が増えた今だからこその、読み応えだったのかもしれない。
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