2009年10月14日水曜日

Twimp改造

と言ってもたいしたことじゃなく、内容的にも未完成。
だが、一応投稿を削除できるようになったので記録。

53行目付近で$deluriに削除のためのURLを登録
$deluri = "http://twitter.com/statuses/destroy/";

240行目付近で投稿表示部分で、自分の投稿なら削除用のボタンを表示(投稿のIDが自分のIDと一致したらフォームを表示。フォームのactionは$deluri+投稿のID+.xml)するソースを追加。
# メッセージ削除
if( $name eq $user ) {
print "<form method="POST" action="$deluri$id.xml"><input type=submit value="del"></form>n";
}


これで、タイムライン上の自分の記事にdelボタンが出てくる。

これをクリックするとBASIC認証があり(これは、twimpをセットしているディレクトリにBASIC認証を設定しているため)、その後削除した記事の情報を羅列したxmlが表示される。

私の携帯の場合は「対応していないファイルです」と表示がでてエラーっぽくなる。
でも、改めてタイムラインを表示させると記事は無事削除されていた。

あとは、削除後のxmlの処理をスマートにして、出来れば最初にログインしていればBASIC認証をしなくても削除できるように出来ればベストなのだが。

2009年9月20日日曜日

『クラウド化する世界』ニコラス・G・カー:著 読了

読み始めて、以前読んで感銘を受けた『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』の作者であることを思い出した。

前著は、ITは最早社会全体に当たり前に存在するシステムの一つであり、導入したからと言って、即 他企業に対してアドバンテージを得ることができる道具ではすでにないこと、かつて電気が使われ出した頃、あるいはメインフレームなどが使われ出した当時の航空会社の歴史的事例などから説明し、“ITを入れれば儲かる!”などという希望的観測による幻想ではなく、ちょうど電気家電を導入する時のように、コストパフォーマンスを十分に検討した上で必要な物を必要なだけ導入すべき…という内容だった。

今回読んだ『クラウド化する世界』。

実は昨今ビジネス書などで「Googleのサービスなどを効率よく使おう」的な「クラウド・コンピューティング」が話題になっているらしく、作者名を見ず、この本もその手の本だと思って手に取ったのだが、内容は全く違った。

以下、ネタばれ有り。



この本が語るのは、「クラウド・コンピューティング」と呼ばれる物の本質である。

技術の進化は、人々の生活をより楽で効率よいものに変えてくれたが、それは、一人一人の幸せを追求するためではなく、むしろ、企業の利益追求や政府の治安維持・統治強化により役立てられてきた。

インターネットが生み出した情報空間は、インターネットの興隆期によく言われた「何者にも束縛されない自由な世界」であると良く言われるが、それは見せかけだけであり、実際は、ネットワークの発達と情報処理技術の発達は、政治や経済を支配してきた者が、よりその支配をしやすくするための力となり、むしろ、インターネットがない時代よりも私達を容易に束縛できるようになっていく。それを電気が巡った歴史などを引き合いに説明している。

人類の歴史で、主要な動力は長く人間or家畜の力だけだった。

産業革命の前、アメリカでは水車を制する者が経済を制した、が、数年後、水車は錆びて朽ち果て、電気とモーターがその代わりを担った。機械的により単純に組むことが出来る電気とモーターは、工場の配置を自由化し、効率追求を実現し、結果、それまでは熟練工の存在が必要だった製造の現場を、むしろ生産ラインの一部として単純作業を効率よく進められる人間が求められるようになった。
機械の身体(@銀河鉄道999)のような存在が、プロフェッショナルにとって変わったのは、まさにこの電気技術の発達によるのだ。

また、電灯の発明により、人は夜に生活するのが当たり前となったが、これが、生活の隅々における労働時間の延長を産み、人々の生活のスタイルをがらっと変えてしまった。

同じように、情報技術の発達は情報発信のリスクやコストをどんどん下げ、かつては本や新聞、テレビやラジオなど、マスコミュニケーション媒体を通すか、個人としては膨大なコストやリスクを背負わなくては発信出来なかったような情報が、ほとんどコストをかけなくても発信出来るようになった。
最早、情報発信のために既存のメディアは必要なく、また、情報技術のウィザードも必要ない。
WEB2.0なんて言う言葉がどこか理想主義的な意味合いで用いられているのは、この情報技術の発展により、既存の政府、企業が主体ではなく、情報の受け手が同時に送り手になれるという状況が、絶対的な自由を生み出すものと無邪気に空想されたからである。

正直、私もそう考えていた。

だが、発達したこのネットワークとデータベースは、企業や政府が、個人の思想や嗜好、生活についての情報を集めることを容易にしている。ただ、それらの膨大な情報を整理し関連づけし、意味のある情報のまとまりを作り上げることが出来る検索技術やデータマイニング技術を活用するだけでいいのだ。しかもそれらの技術は、クラウド化によってより低コストで導入することが可能となっているのだ。
電気技術が個人を生産の現場のパーツにしたように、情報技術は個人を効率的な情報収集の素材として、効率的な消費者として、見えないWEBの糸で絡め取っていくだろう。

最終章では、やや良くあるSFの人工知能者のような未来が語られている。
一人一人の脳が情報端末を通して、クラウド化したワールドワイドコンピュータと直結してる世界。
個人の経験や思考はワールドワイドコンピュータに全て蓄積・マイニングされ、欲しい情報は全てワールドワイドコンピュータで手に入れることが出来る世界。

馬鹿な、と言いたいけど、こうなっていくんだろうな、とも思う。
まるで星新一の『声の網』やジョージ・オーウェルの『1984』、京極夏彦の『ルー・ガ・ルー』の世界だ。

個人でそれに反発しようとしても無理だろうし、実際、こんな文章をブログに書いてる時点で、まさにその渦中にありそれを促進していると言えるわけで、あまり意味があることとは思えない。

たぶん、これが当たり前になった世界では、幸せの形も今とはだいぶ違ったものになるだろうし、「自由」という言葉が表す意味も全く変わっていくだろう。
そんな世界にいて、生きる意味があるのか?

でもよく考えてみると、それは今も一緒で、多分過去も一緒だったように思う。
大政翼賛会と軍部が支配したと言うかつての日本やナチスが支配したと言うドイツでも人は生きていた。
自由の国と言われているアメリカが、本当に自由で平等であった試しはない。
本当の自由があるとしたら、個人の頭の中だけのことで、束縛される人間は、情報技術や科学技術の無い世界でも、何かに束縛されながら生きるのだ。

この世界に人の身を以て生きると言うこと自体が本来束縛なのだ。
本当の意味でその束縛を脱するには、自分自身を構成するその自我という束縛からほどけることなくしてはあり得ないのだ。

願わくば、その世界に生きるであろう息子達や息子達の子供達が、幸せを感じながら生きていけることを。

ともあれ、安易なビジネス書で語られる「クラウド・コンピューティング」とは全く違う、おもしろさに溢れる本。
一読をオススメしたい。

2009年8月5日水曜日

東野圭吾『容疑者χの献身』

を病床にて読んだ。

テレビドラマにもなったガリレオ先生の話だが、中盤過ぎるまで、全て見えてるはずなのにモヤモヤしているのが、最後にピシッとシンプルで極めて残酷な絵を結ぶ展開は秀逸。

例えて言うなら、グスコーブドリの話の最後で、島に残ったブドリが後ろを向いたら博士とかネリとかが残ってたみたいな、…うん違う。もっとこうどうしようもない、でもパンドラ箱の底の希望みたいなのは残ってるみたいな終わりだった。

ガリレオ先生大活躍の巻を読みたい方にはお勧めしない。

なんとなれば、この本の中で一番わがままで残酷なのはガリレオ先生だから。

ホームズ先生だったら

「僕の親友の誇りを掛けた闘いを邪魔するほど、僕は傲慢ではないよ。」

「じゃあほっとくのかい?ホームズ。」

「残念なことだが、しかたあるまい。悲しいことだねワトソン君。優れ過ぎた頭脳を持っていても、この愚かな世の中では、その才能を本当に活かしきることができないのだからね。今夜は長く別れる友のためバイオリンの新譜でも演奏しながら時を過ごそう。」

とか言って推理は披露するけど無かったことにしそうな気がする。

時代も違うし、国も違うけどね。

あ゛、あと攻殻のバトー風に

「あいつは行っちまったのさ。膨大な数式世界へ。一輪の思い出を持ってな。」

とか言う手もあったんじゃないか。無いですか無いですね。

ガリレオの他の本も読みたくなってきた。

2009年7月18日土曜日

「スカイクロラ」の感想

大分前に読み終わって、何度か読み直し、感想も一度書いたのだが、改めて書いてみようと思う。

と言っても、結局、映画版との比較に終始するのだが。

原作を通して感じるのは、翼を失った天使の物語というイメージで、それに対して映画のテーマは卒業なのだ。

もちろん、勝手なイメージ。

「終わらない話を終わらせる」という点は共通なのだが、視点が違う。

原作が「天使でいたかった子等の視点による堕落と、堕落を逃れるための昇天」を語っているのに対し、映画は「卒業した者の視点によるモラトリアムからの卒業」に重心が置かれている。

感覚的には、原作の語る子供観には納得する部分も強い。

しかし、それをヒロインの死で無理矢理終わらせた感じも正直ある。

それは、続く方が(堕落していくことの方が)残酷で救いが無いと私が感じているからかもしれない。

「スカイクロラ」以前の押井作品は、「世界を停滞させようとする者とそれを妨害する者の戦い」をテーマにしている事が多かった。

その際、従来は、ややノスタルジー的とは言え、「停滞させる者」を(麿子や、ケルベロスなど。)魅力的に描くことが多かった。

またそれゆえに、「スカイクロラ」が琴線に触れたんだろう。

しかし、原作の持つ「そのままを求め叶わぬ哀しさ」を俎上に載せた時、押井自身の「停滞させる者」よりも「それを妨害する者」への要素が強くなったのではないだろうか。

それが上述したイメージの違いになったのではないだろうか。



そんな気がした。

2009年7月2日木曜日

ユニットバスの入り方

会社の寮はユニットバス。

しかもサーモスタットが調子悪く、どう調整しても、熱湯→水→熱湯を繰り返し、その間の数秒間しかシャワーがまともに使えない。

つまり、

・お風呂に浸かると身体が洗えない。

・身体を洗うには使い難いシャワーで悪戦苦闘しなければならない。

・両方やると時間がかかる。

というジレンマがある。

それを妻に言ったら一言。

「溜めて洗ったら?」

そこで、最近編み出してやっているのがこれ。

・まずお湯を溜め、湯船に入る。

・頭を濡らし、身体が暖まるまで浸かる。

・暖まったら頭をシャンプーで、顔をボディソープで洗う。

・湯船のお湯で泡を洗い落とす。

・立ち上がって身体をボディソープで洗う。

・湯船に浸かって泡を洗い落とす。

・お湯を抜きながら最後にシャワーで全身と湯船の泡を流す。

・終わり

妻が言っていたのとは違うかもしれない。いや、たぶん違う。

でもこの入り方なら、

・シャワー使うストレスな時間が極めて短い。

・お湯に浸かるのと身体を洗うのを両立できて、しかも時間短縮できる。

・狭いユニットバスであまり動かないで比較的のびのび過ごせる。

特に最後のは意図していなかった点だが、私みたいに図体がでかいと結構嬉しい。

「溜めたお湯に泡を落とす。」と言うのは日本では基本的にタブーなので最初ちょっと躊躇したが、考えてみると海外には泡風呂なんかもあるわけだから。

これで入浴剤入れたら完璧。だと思う。

2009年6月19日金曜日

嘘つき日記

妻が私が職場で書いているブログを評して「お父ちゃんじゃないみたい。」と言っていた。

書いていてもそう思う。

書いている時は、頭の中のキャラクタを変えて書いている。
ちょうど、台本を書いててそのシーンそのシーンでキャラクタを変えてるのに近い。
比較的ポジティブで地域や職場を愛し、その情報発信を楽しんでいる人。

現実にそういう人には会ったことがない。
どこのIT担当も疲れ切ってグチグチ言っている人が多い。

でも、ネット上を見ているとそういう感じの文章を書く人達を時々見かける。
アフィリエイターの方々やコンサルタントの方々だ。

そういう方達が各文章は、とてもポジティブで一点の曇もない青空の様な文章だが、どうにも食い足りずどこか怪しげで裏がありそうな文章の場合が多い。
(裏がありそうと感じるのは私が腹黒い人間だからだろうけど。)

意図的に、欠点やマイナスの部分を、少しでもプラスに転換しようと試行錯誤した結果が、どこか怪しげな印象につながるのだろう。
ポジティブさには裏にネガティブさが隠れており、光が強い程影も濃くなる…というのが現実的な感覚で、ネガティブになるはずの部分が明るいと「怪しい」と感じるのだ。

しかし、実際問題この「怪しい」と感じるポイントは一人一人で微妙に違う。

例えば、古い旅館を「鄙びた」と感じるか「古い」と感じるかは人それぞれ。
それも、「鄙びた」と感じる場合にもチェックポイントは人によって様々で、「木造なら“鄙びた”でモルタルは“古い”」と感じる人もいれば「タイル張りのお風呂は“鄙びた”だが大理石は“古い”」などなど。

“数寄もの”の世界なども、極めて感覚的なもの。解釈は人によって大きく変わる。
さらに言えば、同じオブジェでも見方を変えて面白い所を見つけるのが“数寄もの”の世界と言えるし。

つまり、100%誰もが「怪しい」と感じるものも、「怪しくない」と感じるものも存在しない。
「比較的怪しい」、「比較的怪しくない」ものがあるだけだ。

だとしたら、私が職場で書いているブログはどうなのだろうか。

なるほど、私じゃない人間が書いたような文章にはなっているが嘘を書いていない。
また、職場や周辺地の魅力を紹介するのが目的の商用ブログなんだから(私の徒然なるまま書き散らすブログじゃないんだから)その目的から考えて、職場や周囲の人々がマイナスと考えるものに光を当てておもしろさを見つけ、プラスと考えるものは益々その良さを表現する事が出来ていればOKで、それは比較的出来ていると思う。
文章がやや冗長なのは否めないが。

文章自体は嘘つきではない。
感覚的に嘘をついているため、時々自分でも気持ちが悪くなるが、飯を食うため、妻と子供を養うためだと考えて書いている。

と、自分では考えている。

自分が書きたい文章だけを書ける、それで食える人間になれたら本当は一番良いんだろうな。
そういう文章(書きたいと思ったものに命をかけた様な文章)でないと価値が無いなどと宣う昔の私みたいな人間から見たら、私の職場で書いてるブログは「嘘つき日記」なのだろうが、

畢竟、サービス業とは嘘つき業だ。

と心の中でつぶやいて、今日も仕事に勤しもうと思う。

2009年6月4日木曜日

『墨子』

すみこではない。

念のため。

図書館で借りた。いわゆる注釈本を読了。

『墨攻』(酒見賢一 著)とセットで読むのが吉。

また読みたいな。時間があったら。

墨子の考え方は、個人的には孔子の言葉よりしっくり来る。

しかし、いわゆる墨家集団のイデオロギー的な部分は嫌いだ。

誰のために戦い、誰のために死ぬのか。

少なくとも圧政者のためじゃないはずだ。

キリストその人と教会の関係のようなものを感じる。

集団が自己保存に傾くと、創始者は人ではなくシンボルとなり、生きた言葉はフィルタで濾されて力を失う。

大事なのは、崇め奉ることではなく、我が心と行いを彼の人のごとくにすることだ。

彼の人の考えるように考え、彼の人が行うように行う。

まあそれが難しいのだが

不肖の者には。