男女同権を主張することは、人は皆生まれながらに平等であるという観点から言えば正しいことだ。
ジェンダーによって差別を受けるようなことは有ってはならない。
だが、では、どのようにモノを見、考え、行動するのが良いのかと言う答えは明確ではないように思う。
ジェンダーによって差別を受けるようなことは有ってはならない。
だが、では、どのようにモノを見、考え、行動するのが良いのかと言う答えは明確ではないように思う。
駄目なことはわかる。
だが、ではなにが正しいのか。
だが、ではなにが正しいのか。
ジェンダーとは社会において暗黙の内に規定される性別による役割や価値基準である。
だから、今現在の男女同権の視点で「差別だ!」と批判されていることの多くは、かつてはその社会の常識だったりするし、今現在常識とされることの中にもまだまだ数多く含まれていると考えるべきだ。
だが、そう考え始めるとどこまでも根は深く、どこまで考えたらいいのか途方に暮れてしまう。
だから、今現在の男女同権の視点で「差別だ!」と批判されていることの多くは、かつてはその社会の常識だったりするし、今現在常識とされることの中にもまだまだ数多く含まれていると考えるべきだ。
だが、そう考え始めるとどこまでも根は深く、どこまで考えたらいいのか途方に暮れてしまう。
まず大前提として、男と女では肉体の構造が違う。
そこを原点としたいが、生憎性差に限らず肉体的な差異は一人一人あるので、一括りにするのは乱暴だろう。
具体的に言えば、たとえば「男には精子を作り射精する器官があり、女には卵子を作り受精卵を育てる器官がある。」と生殖器の違いを男女の違いとして規定した場合どうだろうか。
無精子症や勃起や射精することができない人、あるいは生理不順や閉経後の人、あるいは生殖器が十分育たなかった人、あるいは自己や怪我や病気でそれらを失った人など、生殖器は無かったり有っても機能しない人々は、男女の枠組から外れた存在と見られてしまうことになる。 グレーゾーンが生まれるのだ。
そうしたグレーゾーンは、生殖器の違いに限らずあらゆる性差の基準において発生すると思われる。
そこを原点としたいが、生憎性差に限らず肉体的な差異は一人一人あるので、一括りにするのは乱暴だろう。
具体的に言えば、たとえば「男には精子を作り射精する器官があり、女には卵子を作り受精卵を育てる器官がある。」と生殖器の違いを男女の違いとして規定した場合どうだろうか。
無精子症や勃起や射精することができない人、あるいは生理不順や閉経後の人、あるいは生殖器が十分育たなかった人、あるいは自己や怪我や病気でそれらを失った人など、生殖器は無かったり有っても機能しない人々は、男女の枠組から外れた存在と見られてしまうことになる。 グレーゾーンが生まれるのだ。
そうしたグレーゾーンは、生殖器の違いに限らずあらゆる性差の基準において発生すると思われる。
そうした、社会の求めるジェンダーから外れた人々は、男女いずれにも属さないものとして人外のモノ扱いを受けることがしばしばだった。
それを社会制度に組み込んだのが中国の宦官だ。去勢した男は男性でも女性でもないことにより後宮に入ることを許された。
だがそれは中国の皇帝が優しかったからではない。それが証拠に、去勢する刑罰が死刑に次ぐ物として存在していた。
完全な死に次ぐジェンダー上の死。それは確固としたジェンダーが存在する社会ではしばしば社会的な死と同義だ。
社会的に死んだものだから後宮で使うのに都合が良かったからに過ぎない。
それを社会制度に組み込んだのが中国の宦官だ。去勢した男は男性でも女性でもないことにより後宮に入ることを許された。
だがそれは中国の皇帝が優しかったからではない。それが証拠に、去勢する刑罰が死刑に次ぐ物として存在していた。
完全な死に次ぐジェンダー上の死。それは確固としたジェンダーが存在する社会ではしばしば社会的な死と同義だ。
社会的に死んだものだから後宮で使うのに都合が良かったからに過ぎない。
男女同権の話に男女の枠に入らないものを持ち出したのは、それらもまたすべて地続きの問題だからだ。
差別とは、その人のもつ属性の有無を元に、個別状況に関わらず一定の(大抵は不利益)を与えること行為を言うのだと考える。
枠組みの存在が差別を生むが、枠組みの存在を知るためにはその枠組みの外にいる人々のことを知る必要がある。
男の視点から見た女、女の視点から見た男、いずれの場合でも、すでに男女の枠組みの中で生きる内に、意識の中に育まれた常識を越えることはなかなか出来ない。
ネット上で起きる様々な男女差別の論争で語られる言葉の多くが、一方的な視点によるものと感じられる発言であるのも、男女の枠組みの中で男女同権を語っているからではないか?
差別とは、その人のもつ属性の有無を元に、個別状況に関わらず一定の(大抵は不利益)を与えること行為を言うのだと考える。
枠組みの存在が差別を生むが、枠組みの存在を知るためにはその枠組みの外にいる人々のことを知る必要がある。
男の視点から見た女、女の視点から見た男、いずれの場合でも、すでに男女の枠組みの中で生きる内に、意識の中に育まれた常識を越えることはなかなか出来ない。
ネット上で起きる様々な男女差別の論争で語られる言葉の多くが、一方的な視点によるものと感じられる発言であるのも、男女の枠組みの中で男女同権を語っているからではないか?
たとえばよくあるのが「女性は差別されているから、女性に都合の良い仕組みを作れば男女同権になる。」という考え方で作られた施策。
対処療法としては間違いではない。だが、このやり方は男女の性差を温存した上で構築されているので根本解決にはならない。
考えるべきは「差別されてるのは女性だからか?その差別を解消した状態とはどんな状態か?」ということだ。
だがなかなかそういう視点で施策が語られることはない。何故か?
そうした問いかけは、すでにある今の状態、社会の中で暗黙の内に常識とされたものを問い直すことであり、そのためには上述した男でも女でもないものの視点が必要だからだ。
対処療法としては間違いではない。だが、このやり方は男女の性差を温存した上で構築されているので根本解決にはならない。
考えるべきは「差別されてるのは女性だからか?その差別を解消した状態とはどんな状態か?」ということだ。
だがなかなかそういう視点で施策が語られることはない。何故か?
そうした問いかけは、すでにある今の状態、社会の中で暗黙の内に常識とされたものを問い直すことであり、そのためには上述した男でも女でもないものの視点が必要だからだ。
彼らは考える「私たちは男女の性差別の問題を考えている。それ以外の差別原因など考えてたら切りが無いし現実的な施策にも繋がらない。」と。
しかし、まさにこの思考によって彼らは男女同権の本質を見失ってしまう。
しかし、まさにこの思考によって彼らは男女同権の本質を見失ってしまう。
では男女同権の本質とは何か?
男女の違いで差別されないこと。それはつまり「男であってもなくても、女であってもなくても差別されない。」ということだ。
前述の考え方では「男or女である」場合はフォロー出来るが、「男or女ではない」場合は部分的にしかフォロー出来ない。
男女の違いで差別されないこと。それはつまり「男であってもなくても、女であってもなくても差別されない。」ということだ。
前述の考え方では「男or女である」場合はフォロー出来るが、「男or女ではない」場合は部分的にしかフォロー出来ない。
目的が、男女の枠組みの中での利益配分の話ならともかく、男女の性差による差別を無くすことなら、男女という分け方そのものを問い直さなければ根本解決は出来ない。
たとえそれが、現場から見て空理空論に見えても。
たとえそれが、現場から見て空理空論に見えても。
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