今の時代にこれをぶつけてくることに感動する。
最初にその骨子を聞いた時はああ、ただの善悪入れ替えモノかと思ったのだが、違った。
一言で言うなら「抵抗」の物語だろうか。
絶対的な正義の支配の下で個人の幸せとその正義とのギャップを主張する者を、正義の側が正義の名の下に力でねじ伏せ排除する。
そんなの絶対的な正義の力への弱きモノの抵抗の物語といえる。
最初にその骨子を聞いた時はああ、ただの善悪入れ替えモノかと思ったのだが、違った。
一言で言うなら「抵抗」の物語だろうか。
絶対的な正義の支配の下で個人の幸せとその正義とのギャップを主張する者を、正義の側が正義の名の下に力でねじ伏せ排除する。
そんなの絶対的な正義の力への弱きモノの抵抗の物語といえる。
ヤッターマンシリーズの末期は、アニメでも漫画でも、絶対的正義と相対的正義の相克が描かれることが多くなった時代で、そのころの物語では絶対的正義を唱える者は悪とされることが多かった。
その傾向は10年くらい続いた様に思う。
正義のヒーローの飽くなき悪との戦いをテレビで見て育った私にとって、堂々と正義をうたわない主人公ばかりの時代は(好きな作品はあったし楽しんでもいたのだが)カタルシスが乏しく感じていた。
同時に、当時、周囲でオタク趣味を語り合える人がおらず、もやもやした思いを抱えることが多かった。
同時に、当時、周囲でオタク趣味を語り合える人がおらず、もやもやした思いを抱えることが多かった。
後、20代後半にネットで知り合った人たちと語りあったり、アニソンを好きなだけ歌えるようになった時の開放感を覚えてる。
そしてその当時はすでに「相対的正義としては問題あるけど敢えて絶対的正義を訴える」作品が増え始めていたように思う。
個人的には勇者シリーズやサクラ大戦などだろうか。
相対的正義のモヤモヤを乗り越えた先の絶対的正義の主張は、澱んだ水面に降り立つ一羽の白鳥みたいなもので、その存在感は大きかった。
(注意 あくまで個人的感覚。その期間にもそうした作品は作られていたしそれを好んで見続けて人たちも多かったはず。)
それがその後、「絶対的正義を積極的に実現する物語」「絶対的正義を守る物語」が増えてきて今に至る。
観測範囲内だけ見ると、昨今の作品には「あるルールの元に管理された閉鎖空間で、そのルールから逸脱した主人公がその世界の異変に対し、世界を壊して異変が起こる前の状態に作り替えて保つ」という物語が多いように思う。
主人公はスタート時点で世界に対しモヤモヤした思いを吐露したり、適応できてなかったりするのだが、何故か最後はその世界をそのまま保とうとするのだ。少なくともあまり変えない。
そういう物語があっても良いのだ、が、多すぎるように思う。(私自身の嗜好がそうだから、かもしれないが。)
そんな中での「夜のヤッターマン」だ。
4話までの傾向で見るなら、ヤッターマンルールとそこへの抵抗の物語として成立している。
もちろんここから、他の作品のように相対的正義の戦いとなってぐだぐたになる可能性はある。
それでもなんだか期待してしまう。
何を期待してるのだろうか。
何を期待してるのだろうか。
この作品、もし私が20代の頃に放送されたらどう捉えられただろうか。
ただのパロディとしてしか見てもらえなかったのではないだろうか。
当時は戦後が遠くなった時代で、専制政治なんて遠い彼方の空遠くにしか存在しないと考える人が多かったはずだ。
ただのパロディとしてしか見てもらえなかったのではないだろうか。
当時は戦後が遠くなった時代で、専制政治なんて遠い彼方の空遠くにしか存在しないと考える人が多かったはずだ。
今、それは目の前にある。ある方向に向けた言動しか許さない空気も醸成されてきている。
そんな今にぶつけるに値する物語を期待してしまう。
抵抗の物語を語ることによる抵抗を。
私もやはり古い世代なのだと思う。
(全部見終わった後の感想はこちら)
そんな今にぶつけるに値する物語を期待してしまう。
抵抗の物語を語ることによる抵抗を。
私もやはり古い世代なのだと思う。
(全部見終わった後の感想はこちら)
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