最近になって、息子に勧められて「魔法少女まどか☆マギカ」のテレビ版を一通り見ました。
非常によくできていて、私が彼と同じ世代ならやはりかなりハマったろうと思いましたが、彼よりやや長く生きてる分余計な知識も多く、彼の感想とは違ってる部分もあるだろうと思うので言葉にしてみることにしました。
非常によくできていて、私が彼と同じ世代ならやはりかなりハマったろうと思いましたが、彼よりやや長く生きてる分余計な知識も多く、彼の感想とは違ってる部分もあるだろうと思うので言葉にしてみることにしました。
私がこの物語を見て最も感動したのは、最終的にきっちりと救世主物語を語り切ったことでした。
この物語以外にも、世界の崩壊と救世をテーマにした物語は沢山あります。
それらの多くは、主人公の直接的な働きかけによって世界の崩壊が終わり救済が行われます。
しかし、その範囲は物語の舞台として設定された幻想世界でのお話として括られる場合がほとんどで、現実世界では主人公他の心持ちが、スタート時点よりちょっとだけ変わっている…という程度の影響を残して締めくくられる場合が多いように思います。
これは、「現実の世界を救うことは出来ない」という思考がその根底にあるためだと思います。
なぜでしょうか?
逆に考えましょう。
ある救世主によってこの世界が救われると考えた場合、その救世主が登場する物語、思想、宗教が絶対的に正しい必要があります。絶対的に正しいのでないならそれは救世ではありません。
これは、いわゆる絶対主義であり、日本においては(一応)否定されてきたものです。
日本人の「わ」を尊ぶ思想は、絶対主義を基本的には認めません。流れ・空気・雰囲気の中で逃れ得ない一方向へ進行する状況は無条件で認めますが、ある特定の物語・思想・宗教・概念・理論を絶対とする状況は認めません。
だから、日本において救世の物語は、多くの場合アウトローか最高権限によって形作られてきました。(仕掛人梅庵と鬼平犯科帳は同列)
これが救世の物語を作ることを難しくします。
この物語以外にも、世界の崩壊と救世をテーマにした物語は沢山あります。
それらの多くは、主人公の直接的な働きかけによって世界の崩壊が終わり救済が行われます。
しかし、その範囲は物語の舞台として設定された幻想世界でのお話として括られる場合がほとんどで、現実世界では主人公他の心持ちが、スタート時点よりちょっとだけ変わっている…という程度の影響を残して締めくくられる場合が多いように思います。
これは、「現実の世界を救うことは出来ない」という思考がその根底にあるためだと思います。
なぜでしょうか?
逆に考えましょう。
ある救世主によってこの世界が救われると考えた場合、その救世主が登場する物語、思想、宗教が絶対的に正しい必要があります。絶対的に正しいのでないならそれは救世ではありません。
これは、いわゆる絶対主義であり、日本においては(一応)否定されてきたものです。
日本人の「わ」を尊ぶ思想は、絶対主義を基本的には認めません。流れ・空気・雰囲気の中で逃れ得ない一方向へ進行する状況は無条件で認めますが、ある特定の物語・思想・宗教・概念・理論を絶対とする状況は認めません。
だから、日本において救世の物語は、多くの場合アウトローか最高権限によって形作られてきました。(仕掛人梅庵と鬼平犯科帳は同列)
これが救世の物語を作ることを難しくします。
救世を考える場合、「なにを以って世界は救われるか」を設定する必要があります。
しかし、どのような状況を設定しても、必ずそれを否定する立場が存在します。
日本においてはそれは(特に第三者にとっては)当価値とみなされます。
だから「絶対的な敵」の想定は難しくなります。それは=「絶対的な救世主」の想定をも難しくしてしまいます。
救世の物語の作り手たちは、その問題を克服しなければなりません。
近・現代の作家たちは、その根拠を「世界のため」ではなくより特定個人の感情に負わせようとしてきました。言ってみれば「人間キリスト」です。
でも、人間として描くほどに救世主としての無理が出てきます。そのギャップを乗り越える過程を描くことに重点が置かれることになります。
「まどか☆マギカ」の場合、従来の救世主の典型パターンを各魔法少女に担わせました。
自分のため、家族のため、恋人のため、友達のために世界を救おうとする魔法少女たち。
彼女たちは結局、己の願いが生み出す矛盾のよって世界に裏切られ、やがて魔女になり世界を呪い続けます。
これは、例えば、キリストの救世の物語を深く信じる人々の一部が、信者全員で焼身自殺するとか、イスラム教を教義のままに信仰しようとする一部の人々がテロリストになっているとか、ある教祖の言葉を信じた人々が殺人ガスを作って救世を行おうとしたとか、右翼・左翼、ある価値観など、信ずるものを絶対的な根拠に無批判に肯定する行為が、それ以外の世界を呪うことにつながる現状を表していると見ることも出来るかもしれません。
もっと近い話でも、ネット上である記事を元に炎上騒ぎが起こる場合、案外炎上記事の記事主は、記事主自身の考えの中では、ごくまっとうな「世界を良くしたい」という正義感からその記事を書いていたりします。
でもそれが、別のある視点から見たら完璧な「世界への呪い」だったりするわけです。
こんな状況の中では口をつぐむことが最も懸命な行動ですが、当然ながら口をつむぐ人間に世界を変えることは出来ません。
もちろん救世の物語を描こうと考えた場合、口をつむぐことはゆるされません。
そこで、まどかは「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で」と願います。
これはつまり「信じるものが信じることを専一に努力したら、それがきっと報われる=魔女にならないで済む」事を意味します。
この願い自体は世界を救いません。世界を救う人を救う願いです。
まどかの願いは、「正義が正義である世界」「救世主が救世主である世界」、絶対的な正義と絶対的な悪を生み出します。
この願いが、まどか☆マギカの世界を現実から一線引いた「魔法少女が魔法少女として世界を救う世界」を生み出してTV版は終了します。
かつて、評論家の岡田斗司夫は、オタクとはみんなが信じなくなっても「それでも正義は勝つ」と信じる人間のことだというようなことを本に書いてました。
まどかの願いとはつまりそういう願いでもあるのじゃないかと思います。
まどかが救ったものは、世界ではなく世界を救うもの、いわば物語自体だったと言えるでしょう。
映画『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』ではその先の展開が語られているそうです。
この先どういった展開が可能なのか、正直不安はありますが、機会があったらぜひ見てみたいと思います。
しかし、どのような状況を設定しても、必ずそれを否定する立場が存在します。
日本においてはそれは(特に第三者にとっては)当価値とみなされます。
だから「絶対的な敵」の想定は難しくなります。それは=「絶対的な救世主」の想定をも難しくしてしまいます。
救世の物語の作り手たちは、その問題を克服しなければなりません。
近・現代の作家たちは、その根拠を「世界のため」ではなくより特定個人の感情に負わせようとしてきました。言ってみれば「人間キリスト」です。
でも、人間として描くほどに救世主としての無理が出てきます。そのギャップを乗り越える過程を描くことに重点が置かれることになります。
「まどか☆マギカ」の場合、従来の救世主の典型パターンを各魔法少女に担わせました。
自分のため、家族のため、恋人のため、友達のために世界を救おうとする魔法少女たち。
彼女たちは結局、己の願いが生み出す矛盾のよって世界に裏切られ、やがて魔女になり世界を呪い続けます。
これは、例えば、キリストの救世の物語を深く信じる人々の一部が、信者全員で焼身自殺するとか、イスラム教を教義のままに信仰しようとする一部の人々がテロリストになっているとか、ある教祖の言葉を信じた人々が殺人ガスを作って救世を行おうとしたとか、右翼・左翼、ある価値観など、信ずるものを絶対的な根拠に無批判に肯定する行為が、それ以外の世界を呪うことにつながる現状を表していると見ることも出来るかもしれません。
もっと近い話でも、ネット上である記事を元に炎上騒ぎが起こる場合、案外炎上記事の記事主は、記事主自身の考えの中では、ごくまっとうな「世界を良くしたい」という正義感からその記事を書いていたりします。
でもそれが、別のある視点から見たら完璧な「世界への呪い」だったりするわけです。
こんな状況の中では口をつぐむことが最も懸命な行動ですが、当然ながら口をつむぐ人間に世界を変えることは出来ません。
もちろん救世の物語を描こうと考えた場合、口をつむぐことはゆるされません。
そこで、まどかは「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で」と願います。
これはつまり「信じるものが信じることを専一に努力したら、それがきっと報われる=魔女にならないで済む」事を意味します。
この願い自体は世界を救いません。世界を救う人を救う願いです。
まどかの願いは、「正義が正義である世界」「救世主が救世主である世界」、絶対的な正義と絶対的な悪を生み出します。
この願いが、まどか☆マギカの世界を現実から一線引いた「魔法少女が魔法少女として世界を救う世界」を生み出してTV版は終了します。
かつて、評論家の岡田斗司夫は、オタクとはみんなが信じなくなっても「それでも正義は勝つ」と信じる人間のことだというようなことを本に書いてました。
まどかの願いとはつまりそういう願いでもあるのじゃないかと思います。
まどかが救ったものは、世界ではなく世界を救うもの、いわば物語自体だったと言えるでしょう。
映画『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』ではその先の展開が語られているそうです。
この先どういった展開が可能なのか、正直不安はありますが、機会があったらぜひ見てみたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿