昔から、自己犠牲の物語が好きでした。
自分は犠牲になってもみんなのため、世界のためになること為す物語。「俺は世界のためになった」と思える終わりかた。
例えば、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」とか好きです。
なんでだろうか。
たぶん、私に自閉症的傾向があるからなんだろうと思います。
私の思考は、いつも自分が出発点になります。
人のためとか世界のためとか考えても、気がつくと自分のことを考えてます。自分の生き方、死に方を考えてます。
結局自己中心的な人間で、私はどう頑張っても、人のため、世界のためにこの身を投じる人間にはなれそうにありません。
だからこそ、そうではないからこそ、そうした存在に憧れるのでしょう。
自己犠牲の物語では、概ね、自分が命を懸ける価値が描かれます。自分の死と比較されるなにか。
それが何であれ、何か明確な何かのために命をささげることに惹かれます。
もちろん、今から妻も子も捨てそうしたもの命を捧げる気はありませんが。
アスペルガー的な自閉症的傾向がある人間は、周りの人のことを考えないし、迷惑をかけても気にしないと考えられてます。事実、対外的に現れている症状だけ見たらそうだと思います。
でも、それは、足の動かない人は足を動かしたくないんだと考えるようなものです。
迷惑をかけてること、自分が変であることはわかってます。それについて、どうしたらいいかと悩んでもおり、自分なりに導き出した結論に従って改善しようと努力してもいます。
但し、その解釈、そこから導き出される言動は独自の感覚から導き出されていますから、健常者の共感を得ることは少なく、具体的に効果をあげることはまれです。
そして、そとから見たら何もやってないのに等しく、非難されても仕方ないと思います。
だからこそ、こうすれば世界のために、周りの守りたい人のためになるとわかってる死に場所があれば、そこに赴きたいと願ってしまいます。
死は、発達障害者にとって、とても身近な物です。そして、望んで得られないものでもあります。
「いきること」の魅力を感じていなければ、いつでも死ねるのに。
でも今は、生きることにしてます。
二人の子供に対し妻に対し、私ができるのは、どんな生活を送るにせよ、ギリギリまで見苦しく生き続けることです、それ以外、私には道がありません。
どうか、皆さんお休みなさい。
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