自閉症には「社会性の特徴」「コミュニケーションの特徴」「想像力の特徴」の3つの特徴がありますが、その根本原因の一つに「感覚の独自性」があるという話聞いて、ああなるほどと思ったことがあります。
独自性なんていうと、なんだか無条件に良いものとして持て囃される傾向がありますが、発達障害の人間にとっては、苦痛の源と言っても良いものです。
例えば、ロールシャッハテストをすると、健常者の方ならほぼ共通したイメージを回答するのに対し、アスペルガー障害の傾向を持つ人は、他の人とは違ったイメージを持つことが多いと言われます。
また、言葉を独自に解釈することにこだわる傾向が強かったりします。
感覚とは感覚器が受信したデータそのままではなくそれを脳で判断した結果であり、ここに(他の人間と同じように知覚できないという)異常があれば、見るもの聞くもの感じる全てのものが違ってきます。
人や社会との繋がり、コミュニケーション、物事を想像することの根元は、知覚されたありとあらゆるものが元手であって、それ自体がずれていればそれを元手にした行動全てずれざるを得ません。
老人介護のイベントなどで、視界の狭い眼鏡をかけ重りを身体に巻き付けて老人の世界を体験するものがありますが、もし健常者が、発達障害者が知覚する世界を体験できたら、きっと発達障害者の知能自体、精神自体がおかしいのではないことをわかってもらえるのではないか…とも思います。
でもそれはできません。
この違いは概ね理解されることはありません。
そのため、発達障害の人は、物心ついた頃から自分の見るもの聞くもの感じるもの全てに対し、否定されたり無視されたりすることが多くなります。
それが、自尊心や自分自身への信頼感を損なわせ、同時に、それを守るための、自分の感覚に固執する傾向や外部との繋がりをシャットアウトさせる傾向をより加速させるように思います。
私自身そうで、今はそれでも大分ましですが、大学生の頃はかなりひどい自閉的状態でした。
今も、以前ではありませんが、こと他の人との関わりの中では、自分の感覚、考え、アイデアを信じてません。絶対間違っているか、少なくとも外れていると思ってます。
と同時に強く「正解であってくれ!」とも願ってます。その二つがいつも頭の中でぐるぐる戦い続けてます。
健常者の感覚は、訓練で手に入るものではありません。
ずれた感覚器を持ちながら、都度都度修正しながら、世界と関わり続けるしかありません。
もし健常者の感覚があったら、私は今の私ではなかったでしょうし、良くも悪くも、この一生は、ずれた感覚と共にあったわけで、 今さら自分の一生を否定する気はありませんが、もし、健常者の感覚を与えてくれるなら、命を捧げても正直惜しくはありません。
健常者の感覚を持った私は別な私です。
でも、たぶんきっと、今の自分より、周りの人々に迷惑をかけず、周りの人々と幸せを築いていくことができる存在で、今の自分より、この世に存在する価値はあるでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿