2025年2月25日火曜日

物語は所詮マジョリティのもの

 昨今、発達障害やBGLTQ+な人々をテーマにした物語が普通に扱われるようになった。

というか、ほとんどの作品にそういった要素が組み込まれてる。それはそれで悪いことではないのだけど、本当の意味で当事者のあれこれを汲み取った作品は少ないような気がする。

「以前であれば脇役や敵役だったおかしい人を主役にしたから免罪ですよね」みたいな思想が見え隠れする作品が割とある。「都合の良い時だけ異彩を発揮したり必要な時は人の気持ちを理解する発達障」みたいに便利なキャラが出てくる作品。そういう作品がビジネスとして成り立つ=社会的に評価されるのは、「少数派の存在が受け入れられた」からではなく、「少数派は叩くより晒して持て囃した方が金or娯楽になる」と多数派が考えるようになったからなんだろうと思う。

それらの作品の影響の恐ろしさは、「発達障害は天才であるべきでそうでない発達障害は世の害である」という思想を無言で強烈に植え付けることにある。その根底に「役に立たない人間は生きる価値がない」という思想があるこういった考え方、定型発達の人に対しそんなことを表現したらたちまち攻撃されるだろうこういう考え方が、発達障害を主役にした物語では積極的に求められる。で怖いのは、そういう傾向の作品を作ってる人々も、案外「自分は少数派のことを応援している。」と考えていそうなことだ。

そりゃそうだ。定型発達にとって発達障害は、ツチノコやビッグフットみたいなもので、それを紹介するだけでも、他の人より興味関心を持っている…と考えたとしても仕方がないと思う。まあ、同じ人間と見られて嫌悪されたり拒否されたり無視されたりされるのがよいか、異種の生物と見られて愛玩されるのがよいか。どちらも、対象とされる側からしたらほとんど変わらないと正直思うけど。

…といった所で、どうなるものでもない。外れた人間の感覚は、たまたま多数派に受けでもしない限り、世の中的には価値はない。それはわかっている。わかっているけど、時々切なくなり、愚痴りたくなる。

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