2019年5月16日木曜日

あだ名の行方

息子の話だと、最近の学校ではあだ名をつけるのは良くないので禁止されているとのこと。なので「✕(ペケ)な人々」はいずれピンとこない人が多い作品になるだろう。まあ随所に昭和な感覚が息づく作品なのですでに時代遅れなのだと思いますが。
ただ、個人的には、呼び方での差別や罵り、蔑みや辱めがそれで無くなるとは思えなくて、たぶん形を変えて、いわゆるあだ名じゃない形に変化してるのでは?と思う。あくまで妄想だけど。
例えば、

少し前に観測範囲で流行ってた「お気持ち表明」と言う言葉、妻に話したら彼女は知らなかったが、ある種のクラスタで“自分の感情を真理として他人を攻撃する様な人”を揶揄する言葉らしいのだけど、これ、それを見聞きし感覚を共有してる人にしか通じない。
あだ名(というか名前)は本来、付けた人、付けられた人、それを取り巻く人が名前と対象者のつながりを理解して初めて成立する。付けた人だけが理解してるものは名前としては機能しない。が、
付けた人とそれに賛同する人だけで共有した場合、あだ名ではないけど差別、罵り、蔑み、辱めに使える言葉が誕生する。
いわゆる隠語や符丁というやつ。
これは、共有してる人たちが告白でもしない限り、あだ名にはならない。
例えば「三班」がそのグループでは蔑みの言葉になっていて、「〇〇さんは三班だったよね」、「ああ三班だもんね」とかと会話してるのを聞いて、即座に仲間はずれの可能性を感知できるだろうか。音の響きや表情で判断することはできるかもしれないが、本人たちが否定したら?「そんなつもりはありませんでした」と、「三班を三班って呼んでなにがわるいんですか?」と。
まあ、具体的な例があっての話じゃないのだけど、「あだ名をつける」のは道具でしか無く、根本が変わらないなら需要に応じて道具を変えるのが人間だと思う。

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