できる人間が、できない人間のできなさを怒り、責め、罵倒したり、あげつらいあざ笑う等々、感情に任せて行う言動は社会的に許容されることが多いが、できない人間がそれに対し反省し謝罪し感謝する以外の言動をとることは許されず、傷ついたり苦しんだり、まして反論することはより強い批判や非難を呼び起こすことになる。
できない人ができない原因は、本人の資質(やる気も含む)に負う部分はもちろん大きいが、その業務ができにくい業務であったり、できにくい環境であったりする部分の方がはるかに大きい。例えば、ある業務において、できない人ができるようになったら、それはその人一人だけのプラスだが、その人も含めできない人みんなができるような業務や環境に改善すれば、そこの全従業員分のプラスになる。
しかし、できる人はそういう業務や環境の改善をすることより、できない人を罵倒することを選びやすい。できる人にとってできることは当たり前のことだからだ。
当たり前のことを「いや、これは当たり前じゃないんじゃないか?もっと良いやり方があるんじゃないか?」と考えるためには、自分の今のあり方を否定することが必要だ。
「なぜ、できる自分が、できない奴のために自分のあり方を否定する必要があるのだ?悪いのはできない奴だ。」と。
しかし、そこまで明確には考えてない。もっと無邪気で無意識で無分別に、できる人はできない人を蔑み嘲笑する。だってできる人にとっても相手のできない人にとっても周りの傍観者にとっても、できるのは当たり前で、できないのは異常だから。
当たり前のことを「いや、これは当たり前じゃないんじゃないか?もっと良いやり方があるんじゃないか?」と考えるためには、自分の今のあり方を否定することが必要だ。
「なぜ、できる自分が、できない奴のために自分のあり方を否定する必要があるのだ?悪いのはできない奴だ。」と。
しかし、そこまで明確には考えてない。もっと無邪気で無意識で無分別に、できる人はできない人を蔑み嘲笑する。だってできる人にとっても相手のできない人にとっても周りの傍観者にとっても、できるのは当たり前で、できないのは異常だから。
私は基本的にできない人間なので、できる人のそういう無邪気な悪意を見ると、それが自分に向けられたものでなくても、見るだけで辛くなる。と言って、そういう時にそうした無邪気な悪意を止められるだけの論も、心の力も、体力も私にはない。ただ耐えることしかできない。
職場でそんな場面に出くわして無力感に苛まれてますが、とりあえずここで愚痴っておきます。
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