2017年10月11日水曜日

“排除しない理念”の例外

先日発足した立憲民主党の枝野氏が“排除しない”というキーワードを使って自党の軸にしている。
このキーワード、個人的には大変素晴らしいと思っているのだけど、同時にどうしても不安感も感じずにいられない。
なんというか「プロレスで悪いレスラーは凶器攻撃が悪のレフリーによって黙認され正義のレスラーはそれを受け止め耐えることしかできない。」みたいな歯がゆさというか不快感というか。

“排除しない”ことはより平等に生きていける社会を目指す上で欠くべからざる要素である。
だが、これは“自由に生きる”こととは案外相性が悪い。


“自由に生きる”とは個人個人が自分の良しとする価値観を元に、判断し発言し行動することが許される状態を指すと言える。
だが価値観は、物差しである以上あるものを良しとすればそうでないものは相対的に価値の無い物になるので、自由に生きることは同時に周りに対し自分の価値観に基づいた差別・区別を行うことにもなる。
一方“排除しない”理念は、あらゆるものを平等に価値のあるものとして扱うことを前提にした考え方と言える。それはあらゆる人のあらゆる価値観を平等に扱うという話だ。
価値観を平等に扱うということは差別・区別を行わないということだ。

こうしてみれば完全にバッティングすることがわかる。

例えばある宗教的価値観を是とするなら、その宗教で禁忌とされるものに対して他のものと平等に接することは出来ない。極端なたとえだが「豚肉料理が大好きな人がムスリムの人々を歓迎するために豚料理を出すこと」は是か非かというようなことだ。
ある人の自由を認めることが他の人の自由を阻害する場合、どちらかの、あるいは両方の自由を抑制せざるを得ない。
だから、実際的には“排除しない”理念は“自由の抑制”とセットにならざるをえないと言えるが、“排除しない”ことと“自由を守る”ことは漠然とセットで語られる事が多い。
そのため、ここはウィークポイントとなりやすい。

“表現の自由を語りながらヘイト・スピーチする権利は認めないのか”とヘイト・スピーチを行う人間に言われた時、「ヘイト・スピーチは悪だ」と言い切ることはヘイト・スピーチを行う人間を排除したことになる。だがそれを黙認したらヘイト・スピーチによって攻撃されている人々を切り捨てたことになる。
(個人的にはヘイト・スピーチおよびカウンターヘイトとしてそれに罵詈雑言を浴びせることは、その理念ではなく手段が悪いと考えている。しかしそういう形でしか自分の価値観を表現できない人もいる。冷静に論理的に自分の理念を語り論議が出来る人は多分一部にしかいない。「論理的に語れない奴は政治を語るな」と言ってしまったら残りの多くの人々を政治から排除することになる。)

結局それぞれ対し、過剰な対応を押さえつつ価値観の摺り合わせを進めていくという形でしか“排除しない”理念を貫く方法はないが、これはそれぞれの自由を抑圧することにつながるので反感を買うことになりやすい。また、対立する人々にとっては攻撃しやすい的となる。
「皆の自由を可能な限り認めつつ、全体として排除されるものがより少ない状況を目指し、そうした人々が少しでも幸せを実感できる社会の仕組みを作る。」
私個人には、全くもって道が見えない絶望的なルートに思える。
今の与党や希望を語る人々のように特定の価値観だけを尊しとして上から押し付ける方がずっと楽だ。応援者も考える必要がないから楽。

“排除しない”という理念をあえて掲げる立憲民主党には「志村うしろ!うしろ!」的な不安を感じる。
と同時に、だからこそ期待せずにはいられない。
そんな難しい課題を敢えて自らに課しつつ、現状を改善するために前に進もうとする意思に対し。

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