この所、水天堂の落書きばかり更新しているのだけど、実は結構描けなくなっている。
時間はあるのだけど、満足行かなくなってきたのだ。「適当に楽しく、ぼちぼちと」描き続けていきたいと思っていたのだけどそうもいかないらしい。
なので落書きポリシーを変更することにした。
無趣味と言いつつ、これまでにいろいろなことを趣味にしてきた。
間近くは落語とか釣り。
それに必死になっている時はそれ一辺倒で、空いている時間は全てそれに注ぐし、それを邪魔されると怒るほど感情移入してしまう。
でも一旦あるラインを超えると、すっと冷めて手が出なくなり、いつの間にか止めてしまう。
止めた後も好きは好きなんだけど、わざわざ時間を割いてまでやる気がしないという感じ。
大体は「そこそこ出来るようになった」というのがそのライン。
落語なら1本2本通してやれるようになった所で、釣りだったらいつも行っていたところで比較的コンスタントに魚が釣れるようになった所で。
今やっている落書きに関しても、たぶんそういうラインに達したら止めてしまうんだろうなあと自己分析している。
そんななんで、出来るだけ出来を云々するのは止めようと思っていた。出来がそこそこと思えると多分そこで気持ちが止まってしまうから。
でも、描いている内にやはりどうせ描くなら少しでもいい絵を描きたいと思うようになってきた。
面倒くさいのはこの気持を無視し続けると、やる気自体が消滅してしまってやはり止めてしまうことにつながることだ。
で、今回妥協して変更することにしたのは「一発書き限定」という点。
作品で言うと「恐竜の化石 - Bones of dinosaur」までの作品は、下書きは一切せず、一気に描き出し、失敗してもごまかして、上手く描き上がったらUPするということを自分のルールとして課していた。
上手く行かなかった場合はそれを参考にもう一度0から描き上げる。
でもこれ、失敗した時のダメージが大きいのだ。
それでも描き始めの頃は「少々失敗してたっていいや。落書きだもの。」と自分に言い聞かせて少々アレでもUPしていたのだけど、描くのに慣れてくると欲が出てくる。
最近多かったのは、「描いている内に描きたい構図が見つかった」とか「描いたキャラターの角度が書きたい構図からズレてる」ため、修正しようとするけどながらごまかし切れないというパターン。
逆に言えばこれまでアップしていた作品のほとんどは奇跡的にそうしたことをすり抜けて完成まで行ったものなのだ。
でも、そうした奇跡に頼るのがしんどくなってきた。
そこで、「初陣の前 - Dressing for her first battle」以降は、下書きをしてからペン入れをすることにした。
おかげで完成率はぐっと高くなった。(完成度ではない。まあ完成度も上がったとは思うけど)
最初っからさっさとそうすればよかったじゃないかという声もあるだろうと思う。
でも、ポリシーの変更は、いわばこだわりやプライドの置き所の変更でもあり、現在のこだわりやプライドを一旦全否定することが必要なのだ。出来ることならやりたくない。
でも10日近く絵をアップできなかった。描けなかったわけじゃなく描きかけた絵はいくつかあったけど構図がおかしかったり納得できなくてアップできなかった。
このままだと描けなくなってしまうという危機感に押されたからこそポリシーの変更を受け入れることが出来たのだ。
この葛藤、たぶん読んでる大多数の人にとってはどうでもいい葛藤だろうと思う。
でもつらつら見るに、世の中にはこのレベルの本人にとってだけ大きな葛藤と、それに起因したトラブルがゴマンと溢れている様にも思う。
「大多数にとってはどうでもいい、でも本人にとっては大きな葛藤」は、あまり可視化されない。なぜなら大多数にとっては正に「どうでもいい」ことだからだ。
だが、そのどうでもいいことが積み重なることで大きなトラブルに繋がることはよくある。
その時、大多数の人はその原因となった「どうでもいい」ことにこだわった人を槍玉に挙げることで(どうでもいいことにこだわった“罪”を非難することで)、全て終わったことにしてしまう。
しかし、この時トラブルの真の原因は「周りと本人との同じ事象に対する感じ方の不均衡」にある。
前述のやり方は「本人が感じ方を改め周りと同じ感じ方をする様強要する」ということになるが、感じ方はその人の肉体・精神に深く関わっており、変えようと言ってすぐ変えられるものではない。
逆の立場で考えてみればわかる。
自分のとって本当に瑣末にしか思えないことに、ものすごい時間と意識と物資を費やす人が居て、それを自分に対しても強要される。大半の人は馬鹿馬鹿しいと考えるだろう。だがそれを態度に表した途端、周囲のあらゆる人がそれを非難し始めたとしたら?
上記の話とは軽重が逆だが、「軽重の不均衡」によるトラブルである点は一緒。
結局、「大多数の人がどうでもいいと思っている」という事実を以てこだわる本人を責めることが容認されているのは、結局そう思っている人間が「大多数」だからに過ぎないことがわかる。
だから、こうしたトラブルを根本的に解決しようと考えた場合、「感じ方の不均等」を以て正誤を判断せず、最終的な目標に対し、そのこだわりも他のこだわりも等しく価値を持つものとして分析・判断をすべきなのだ。
まあ、難しいのだが。
閑話休題
ともかくも、しばらくの間「一発描き限定」のポリシーは捨て、下書きしてでも楽しく描くことを優先させることにした。
いずれまた、もやもやしてきたら考え直すことにしたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿