2016年4月16日土曜日

境界のこと~熊本地震に思う

一昨晩、熊本地震が発生、昨晩は夜立て続けに強い余震が続き、結局そちらが本震と言うことになった。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160416/k10010482591000.html
九州北部に住まい仕事もしてるが、特に身の回りに被害は無い。
でSNSを覗くと、こんな私のタイムラインにも心配の声がぼちぼちあり、また「九州の人達」への心配やエールも飛び交っている。

で、
揺れは経験したけど目立った被害が無かった時点で、私はたぶんこうしたエールの対象ではないよなあ、と、
こうしたエールは当然熊本やより揺れが強かった地域、あるいはせめて近辺でも実際被害を受けた人に対するものだよなあ、と、
東日本大震災の時、被災地に含まれ、揺れも経験したけど、特に目立った被害がなかった人達は、今の私と同じような心持ちだったのかなあ、と、
そんなことを考えていた。
まあ、東日本大震災の時「うちの被害はそんなに無かったよ」と言っていた友人知人も、断水や停電やガス止めを長く食らってたり寒い中数日とはいえ避難生活をしてたりしたので、今の私よりは確実に被害は受けていたので、単純に比較すべきではないと思いつつ。
つくづく境界線が難しい問題だと思う。
広範囲かつ強制的でありながら個人差の大きな事象では、境界線もまた幅広く濃淡も判別しにくくなる。
被災者であり被災者ではない。
被災者ではないが被災者である。
そこに一本線を引くことが何を意味するのか?
被災者は弱い守るべき存在。
被災してない者は被災者を保護し守り応援すべきで、被災者は甘んじてそれを受け入れるべきである。
被災地は今なお危険な地域である。そこは安全が確保されるまで隔離されるべきだし、その暁には復興のために援助されるべきである。
線を引くことがそうした関係性のどちらかかに自己を規定して、それ甘受することにつながる。
だが決め手がない私のようなマージナルな人間には、どちらに属することもたぶんに虚構的だ。
前回は完全に非被災者だったのでこの手の悩みはなかった(むしろ、被災者の気持ちは絶対理解することはできないと絶望したくらいだった)けど、今回は本当に微妙だ。
だが、考えてみれば、私はいつでもどんな時でも、気が付くと境界線の上にいる。インサイダーにもアウトサイダーにも成りきれない。
これもまた、それだけのことなのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿