2015年6月1日月曜日

福岡ポエトリーに参加して

昨日、妻と福岡ポエトリーに参加した。

正直“詩の”というところで偏見を持っていた部分はある。
私はいわゆる“詩的”なものが苦手なのだ。
嫌いじゃない。
物語などで詩的なせりふ、詩的な描写がぴったりはまってる時はゾクゾクする。
でも、それはせりふや描写だからで、いわゆる詩人の作品はほとんど読んだことがない。
読んだことのある数少ない経験においても、例えば谷川俊太郎や萩原朔太郎、宮沢賢治や中原中也の作品などを読んで「すごいなあ」とは思ったけど、そこと自分と…というかそうした世界に感銘を受け、そうした作品・詩を愛する人々と自分の間には、深くて暗い溝があってそこを渡る術が全く見当たらないような感じで、呆然としてしまうのだ。
まして、自分が詩的なものを作ったり、それをきちんと表現するなんてことが出来るだろうか?
絶望的に自信はなかった。

ただ参加することには決めていたので、今回は短編小説を読むことにした。
選んだ題材は内田百閒の「雪」。
内田百閒の作品は以前、個人企画の一人芝居で「件」をやったことがある。あの独特の言語世界なら「詩的」と言っても良いと思ったから。
「雪」は、時間的な部分もあったけど、読み終わった時に他の作品より放り出される感があったのと、色鮮やかな作品なのが面白いと思って選んだ。

決めた後、今の季節に合わないんじゃないかと思ったが、変えるのも何なのでそのまま進めた。
結果的に、良かったのか悪かったのかはわからない。
良し悪しを語るような、そういう会でもなかった。
司会の夏野さんが、「今の季節、夜寝る時、薄掛け布団だと心許なくて、だからと厚い布団を掛けたら悪夢を見た、みたいで季節に合ってたと思いますよ。」と大変グッと来る的確かつ好意的な寸評をしてくれたのが、嬉しかった。

妻は大トリ。有る芝居の長台詞を読んだ。
彼女らしい題材。
彼女らしい、何ともふわっとニュートラルに怪しげでまじめな感じで、面白い。
台詞の中で時がぐぐっと回転する様なところもきちっと押さえてて、良いなあと思った。

参加者は10名ほど。
歌の方が1名、私と妻以外は詩の朗読で、既成の詩を読む方もいたけど自作の詩を読む方がほとんどだった。
(下の息子が保育所の頃仲良くしていただいた子のお父さんも参加されていた。実はもともと詩人だったそうだ。保育所の頃はあまりそんな印象がなかったので意外だった。)

ゆっくりと時間が過ぎる感じで、それぞれがそれぞれのやり方で何かを言葉にしている感じで、なにか完成形や成功例があるわけではない中で、なんというか、嵐の夜にちょっとした小屋の中で、隙間風を避けながら、お互い持ち寄ったろうそくを灯しているような時間だった。

終わってみて感じたのは、「詩的」というものに過剰に身構えていたのだなあということ。
そんなに身構えなくても良い空間だったし、詩という物自体がそんなにガチガチの枠にハマったものではないという感じ。
というかむしろゆるくてふんわりしていて、そのゆるくてふんわりしている事こそが「呆然」としてしまう原因だったのだと思った。

私は発達障害の傾向があり、どうも私の場合、物事を筋道だけで捉えようとしてしまい勝ちなようで、筋道が明確な場合は安心する。筋道が見えない時には呆然とする。
詩の世界は言葉の世界であまりにも膨大な世界で、筋道はない。
だから呆然としてしまったのだと思う。

でも、それは取りも直さず、私の言葉もまた詩の膨大な世界の一部なのだと感じた。
ならば、筋道で捉えてしまう私の、私なりの詩もまたありえるのだろうと思う。
肉体を言葉の世界とした場合、肉が詩的な部分で、骨・筋は詩的ではないと思ってきたけど、骨・筋もまた肉体の一部だったという、当たり前といえば当たり前のことがわかったひと時だった。


ちなみに、「福岡ポエイチ」という詩のコミケ的なイベントが6/6(土)-7(日)にあるとのこと。
また、福岡ポエトリーの次回は7月になるとのこと。

次の機会には、自作の言葉を持って行こうと思う。

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