2015年4月4日土曜日

アニメ 「夜のヤッターマン」はやっぱり「今」の物語だった

以前、『夜のヤッターマン』が始まった当初、抵抗の物語として期待するとのエントリーを書いたのだが、最終話まで見終わって、期待を裏切らない展開に嬉しくなった。(見始めた頃の感想はこちら
過去の作品のリメイクではなく、最後まで、明らかに「今」に向けた物語だったからだ。

もしこの作品を十年前にやっていたらどう感じただろうか。
ヤッターキングダムは北朝鮮などをイメージしたものとして捉え、その解放…と言われても正直ぴんとこなかっただろうと思う。

でも今の日本では?

メディアに売国奴とか国賊とかと言った言葉が飛び交い、古い幻想や価値観を強要することを美しいとする人が増え、それを批判する者には容赦ない攻撃が叩き込まれ、それを恐れておかしいと思ってもみんな口をつぐみ抵抗することを諦めた世界。
ヤッターキングダムはそんな世界だが、どこかで聞いたことある話ばかりではないか?

(制作者がどこまで確信犯的にそうした物語を紡いだのかはわからない。
私の一方的な勘違いかもしれない。
でも、この作品は為政者がその気になれば、容易に「現政権を批判している」と取れる要素を豊富に含んでいる。
意図的にせよ無意識的にせよ、そうした物語を今の時代に紡ぎ出し、きっちり最後まで語りきった勇気て情熱に心より敬意を表したい。)

が、それにもまして、

最終2話の展開はゾクゾクした。
このゾクゾクは上に書いた屁理屈とは関わりのないゾクゾクだった。

抵抗の勇気、決断、行動。
それも、人は得てして既存の枠組みでしか物を考えられなくなると言う現実、その枠組みを逆用した革命は、ご都合主義的にドロンジョ達が正義と認められるような展開よりしっくりくるし、それでいて、確かに夜は明け希望は芽吹いた。
このカタルシス。

惜しむらくは最終決戦の場面、あまりそういう目で見ない私が見てもわかるくらい動画の使い回しが多かったのは残念。
予算か納期か。でも、まあ問題ないレベルだと思う。
動画の使い回しのないヌルヌルしたアニメで中身がない作品はいくらでもある。それに比べたら何倍も良い。

だが、一つ心配というか不安な点もある。

これをカタルシスと感じるのは私がおじさんだから、おじさんのノスタルジーからのカタルシスではないか?という点だ。
私の子供の時には正義が悪に勝つアニメ、特撮は今より沢山あり、その中には今の自分が見たら「これは正義なのか?」と思うような物も沢山あったが、少なくとも「みんなの平和と幸せのために戦う」ことは正しいことだと刷り込まれてきた。
ここで肝心なのは「みんな」のためだっていう点。
今の世の中でも正義はそこかしこにある。が、いずれも相対的な正義に感じられる。絶対的な正義ではないのだ。
私は元々絶対的な正義なんて無いと思っているけど、そのくせそれを心のどこかで求めている。

絶対的な正義を称する人々の言葉を聞くとその話には必ず「誰かの平和と幸せのために誰かが犠牲になる」ことが正義として語られている。
でも、そうした正義は必ず相反する正義によって否定される。

ではどんな正義が私の信じられる絶対的な正義なのだろうか?
それこそ「みんなの平和と幸せのために私が戦う」ということなのだろうと思う。

この二つの違い、伝わるだろうか。
たぶん伝わらない人も沢山いて、もしかしたらそれは世代的な差もあるかもしれないと感じている…。


ともあれ、
この物語はそんなおじさんである私の原体験を呼び覚ましつつ、今の視点でそれを立ち上げようとした物語で、それは今の世の中ではきわめて得難いものだったと私は思う。
願わくば表面的なパーツやキーワードで忌避されることなく、一人でも多くの人がこの作品を観てくれることを。

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