2004年5月24日月曜日

Winny問題

昨日、オフ会でNINさんにWinnyについて振られたのだが、実はここ一月近くパソコン系のニュースやコラムからは遠ざかっていたので、騒動について全く知らなかった。
Winny開発者の逮捕とそれに伴う騒動の細かい内容については置くとして、この事件によってP2P技術の発展に影が差したのは確かだろう。
逮捕の記事で、開発者の47氏が述べたとされる言葉が紹介されていたが、現在の著作権制度に一石を投じる意図があったと判断された(明らかに違法行為を意図していたとみなされた)点が警察が逮捕に踏み出した大きな理由であったようだ。

私はフリーソフトが好きだ。同じ内容のソフトがあったら割とフリーソフトを使ってみたくなる。
フリーソフトの思想の根底に、既存の技術を惜しみなく土台にし共有して、新しいあるいは多彩な技術、道具を生み出そうとする考えがある。それが好きなのだ。
つうか、個人的に、自由であること、なにものにも妨げらず、自らを自らの思う通りにあることをなによりも願う。
そしてその自由の中には、「自ら不自由であることを選択する権利」も含まれる。
著作権の行使とは、本来、自分が作り出した作品を自分の望む様な形で流通させる権利であろう。情報も物も流通してこそ価値を持つ。情報に関しては、現在流通経路を司る組織によって経済行為が行われている。これは、物理的なメディアを媒介してしか情報を流通し得なかった時代の経済モデルそのままである。
多くのコンピュータや機器がネットワークに接続され、それを経由して情報が流通される時代にそぐわないため、その改正が取沙汰されている。
最近の著作権の法的強化とガード技術の開発の動きと、それに対応する著作権ガードを回避する技術のハッキングの動きは、この情報流通の流れの過渡期ゆえと言えるだろう。
地上波デジタルをDVDに録画する方法を紹介した記事を見た時、頭が痛くなった。
一体どれだけ縛りを入れれば気が済むのか。

インターネットは、性善説に基づいて生み出されたという話がある。
悪意や犯意を持つ者も、善意の人間と同じ様に扱う技術である。もともとのインターネットは、正に国籍も人種も関係ない自由なネットワークとして作られたと。だからこそ、様々な価値ある情報が集まった。現在でも、本当に生きた情報は2chの様に自由度の高い場に集中している。
ネットワークは所詮、道具である。問題なのはどう使うかだ。

既存のサーバー・クライアントネットワークをベースに利用するとは言え、特定のサーバーを利用せずにネットワークを構築するWinnyのやり方は、実は結構好きだ。
各自のコンピュータがサーバーでありクライアントであるという構造は、ハイパワーなワークステーションを私有できる現代においてある意味理想的なネットワークシステムでもあろう。
だが、プロトコルも仕様もソースも公開されてなかったと聞く。
公開しない理由は、解析されると匿名性が失われるからだと。
しかし、インターネットがそうであったように、実は積極的に公開したほうが良かったのではないだろうか。技術として定着すれば、あとは使い手の問題なのだから。
より自由なネットワークを構築することを目的として開発していたのなら、逮捕はさぞかし難しかった様に思う。とどのつまり、自由に対する考え方の甘さだ。
著作権へのテロではなく、自由への戦いをするべきだったのだ。

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