『虎に翼』が終わった。
語弊のある言い方だが「理想を追い求めることの格好悪さ」を丁寧に描く部分が魅力の一つだった。
昔から「悪いやつが実は良いやつで」を使って理想が描かれたり、「理想は理想、現実は現実」と切り分ける物語が多く、「理想を追い求めるけど上手く行かない。けど追い求める。」を描く物語は少なかった。たぶんカタルシスが得られにくいから。
でも『虎に翼』はそれを観せてくれた。魅力的に。
「理想を追い求める人」というのは物語を作る上では扱いづらい。
「やはり理想には届かない」絶望か「理想を追うのは才能(特別な人)」という差別に陥りやすい。佳きか悪しきかに偏りがち。
『虎に翼』では主人公の寅子を筆頭に「佳きと言い切れないが悪しきとも言い切れない」人々が丁寧に描かれた。それが好きだった。
「理想には届かない」という現実をベースにした物語は、現実に満足した人や理想に絶望した人に持て囃される。
「理想は美しい」という夢想をベースにした物語は、理想を弄びたい人に喜ばれる。
どちらにもハマれない中途半端な人々、理想の限界を知りつつそれを手放せない人々を受け止める幅が『虎に翼』にはあったような気がする。
終わってしまって残念。
いいドラマだった。
以下、雑談。
理想を描こうとする時、理想を美しく言挙げし追い求める人を佳き人として美談にまとめてしまいがちだ。それが佳き理想であればより一層。でも、そうして描かれた世界にはリアリティがなくなりがちだ。
そもそも「理想を追い求める」事が佳きこととされるのは、「理想」が佳きものとされるからで、だからそれをする人もまた佳き人"でなければならない"という偏りが生まれやすいからだ。
だが、「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人おや」のように、佳くないからこそ理想を求めるし徹底出来なくても手放せないものなんだと私は思う。
ナチュラルに炊事は女性の仕事と考えるような奴が性差別の解消を考えたり、宗教なんて微塵も信じてない奴が道端で死んでいた猫に思わず南無阿弥陀仏を唱えたり、日々部下を怒鳴りつけて仕事を押し付けるような奴が虐待を受ける児童の里親を目指したり。
現実に目にしたら眉を顰めたくなるような中途半端さ。でもそういう人は居る。そういう人を切り捨てた方が世の中はわかりやすい。
でも、ある人のわかりやすさは、ある人の不条理につながる。そうしたわかりやすさと表裏一体の不条理は世の中のそこかしこにある。
中途半端な人々を「本当は佳き人でした」でも「結局駄目な奴てした」でもなく、「佳きもあり悪しきもありな人」として描けたら、そうした表裏一体の世界を描けるのだと思う。
そういう人々がそういう世界で、佳きことも悪しきことも、佳きことに見える悪しきことや悪しきことに見える佳きこともやりながら、結局変わらない円ではなく、なにかが変わる螺旋を描く様な物語が描けたらなあ…と思う。