2024年9月28日土曜日

『虎に翼』と理想と現実

 『虎に翼』が終わった。

語弊のある言い方だが「理想を追い求めることの格好悪さ」を丁寧に描く部分が魅力の一つだった。

昔から「悪いやつが実は良いやつで」を使って理想が描かれたり、「理想は理想、現実は現実」と切り分ける物語が多く、「理想を追い求めるけど上手く行かない。けど追い求める。」を描く物語は少なかった。たぶんカタルシスが得られにくいから。

でも『虎に翼』はそれを観せてくれた。魅力的に。

「理想を追い求める人」というのは物語を作る上では扱いづらい。

「やはり理想には届かない」絶望か「理想を追うのは才能(特別な人)」という差別に陥りやすい。佳きか悪しきかに偏りがち。

『虎に翼』では主人公の寅子を筆頭に「佳きと言い切れないが悪しきとも言い切れない」人々が丁寧に描かれた。それが好きだった。


「理想には届かない」という現実をベースにした物語は、現実に満足した人や理想に絶望した人に持て囃される。

「理想は美しい」という夢想をベースにした物語は、理想を弄びたい人に喜ばれる。


どちらにもハマれない中途半端な人々、理想の限界を知りつつそれを手放せない人々を受け止める幅が『虎に翼』にはあったような気がする。


終わってしまって残念。

いいドラマだった。



以下、雑談。


理想を描こうとする時、理想を美しく言挙げし追い求める人を佳き人として美談にまとめてしまいがちだ。それが佳き理想であればより一層。でも、そうして描かれた世界にはリアリティがなくなりがちだ。

そもそも「理想を追い求める」事が佳きこととされるのは、「理想」が佳きものとされるからで、だからそれをする人もまた佳き人"でなければならない"という偏りが生まれやすいからだ。

だが、「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人おや」のように、佳くないからこそ理想を求めるし徹底出来なくても手放せないものなんだと私は思う。


ナチュラルに炊事は女性の仕事と考えるような奴が性差別の解消を考えたり、宗教なんて微塵も信じてない奴が道端で死んでいた猫に思わず南無阿弥陀仏を唱えたり、日々部下を怒鳴りつけて仕事を押し付けるような奴が虐待を受ける児童の里親を目指したり。

現実に目にしたら眉を顰めたくなるような中途半端さ。でもそういう人は居る。そういう人を切り捨てた方が世の中はわかりやすい。

でも、ある人のわかりやすさは、ある人の不条理につながる。そうしたわかりやすさと表裏一体の不条理は世の中のそこかしこにある。

中途半端な人々を「本当は佳き人でした」でも「結局駄目な奴てした」でもなく、「佳きもあり悪しきもありな人」として描けたら、そうした表裏一体の世界を描けるのだと思う。

そういう人々がそういう世界で、佳きことも悪しきことも、佳きことに見える悪しきことや悪しきことに見える佳きこともやりながら、結局変わらない円ではなく、なにかが変わる螺旋を描く様な物語が描けたらなあ…と思う。

2024年4月21日日曜日

身体を使うこと

 運動とは敢えて言うまい。

身体を使うことは好きだ。動かすのが気持ちいいし楽しい。子供の時からそうで、落ち着きのない子供だったと思う。走り回ったり飛び跳ねたり好きだった。

なにかのフリをするごっこ遊びもきらいじゃないが、なにに扮するかで大きく違っていた。そして誰かと一緒の時は大概自分が望まぬ役をやらされてた気がする。だから、いつの頃からか一人遊びが好きになった。

球技や競技は嫌いだ。結果が明確に出るのが嫌だし、結果のためにやりたいことを我慢させられるのも、それが正当化されるのも嫌だ。

2024年3月26日火曜日

呪文

 小さい頃、呪文のようなものを覚えるのが好きだった。変身の呪文とか必殺技の呪文とか。

寿限無を覚えたのは小学校高学年の時で、お菓子の袋に印刷されてたのを見て覚えた。

中学生の頃、初めて古文とか漢文に接した頃は結構ワクワクして、平家物語の序章や枕草子の春はあけぼのあたりは丸暗記したけど、文法や漢字・単語を覚えなければならなくなった頃から急速に苦痛になって覚えられなくなった。

私にとっての役者の楽しみの一つはセリフを言えることで、これは呪文を覚えて唱える喜びに通じている様に思う。

セリフと呪文、どちらも覚えたての時は、自分にとっては異物で、それを言い慣れやり慣れてくると気持ちよくなり、でも、それが薄れた頃すっかり定着している。その、自分に定着させていく過程の快感。(まあ、役者の仕事は本当はセリフが定着してからなのだけど。)

言葉で格闘する機会、最近とんと無いなあ。

2024年3月25日月曜日

絶望の味

「ここは俺に任せて先に行け!」みたいなのが実は好きだ。それが絶望的に悲劇的で切ないほどいい。

平野耕太の『HELLSING』のベルナドットの最後のシーンとか、イギリス軍基地で凡庸とされた将軍と部下たちが命をかけて敵を足止めしようとするシーンとか好きだ。(そもそも『HELLSING』は私の性癖に響くシーンが多い)。

一方で、絶望的な状況で抵抗できない残虐なシーンを見ると精神的にしんどくなる。

昔で言えば、映画『二百三高地』でロシア軍のトーチカの堀に突撃して落ちてしまった日本兵がマシンガンの餌食になるシーンとか、エヴァ旧劇場版2作目で2号機が量産型エヴァに食われるシーンとか、『HUNTER×HUNTER』で虫の王様に捕まったやつが脳みそを弄られるシーンとか、嫌だ。 本当に嫌。

でも、嫌ということは私にとって生理的に響くシーンということなんだろうと思う。

例えば、『夢幻回路2003』に有る箱入り少女に無理矢理大福を食べさせるシーンは、元々無理矢理〇〇させるが生理的に嫌だったからこそ思いついたシーンなんだと思う。

基本的にこれまで、こういうイイとかイヤから目を背けてきたような気がする。
イイとかイヤは精神力(MP)を変動させる。
MPが枯渇すれば、何も考えられなくなり、普通のやりとりすら出来なくなる。
人として安定した生活を過ごすためには、MPを安全な範囲でキープする必要が有る。

宗教や心理学に興味を持ったのもその辺の必要性からだった。

最近は身体の老化に伴い、身体の欲望が減ったおかげで、安定した生活がしやすくなった。
でも同時に、イイとかイヤとかがわからなくなってきた。
イイとかイヤの根底は欲望だったのだと思う。欲望(こうあってほしい)があるからそれに対するイイとかイヤが出てくるのだ。
失って初めてわかるなんとやら。

このところ、台本が書けない。書きたいと思わない。いや、書きたいことが無ければ書かなくて良いのだ。でも、なんだか漠然となにか書きたいとは思っていて始末に悪い。自分がどうするべきかわからない。イイのかイヤなのかわからない。ぼんやりしている。
これって、あまり良くない状態なのではないかと思うだ。
若い時「死ぬ時に後悔しないで済むようにしたい」と考えていたけど、イイとかイヤが最低限わからなければ後悔すら出来ない。

ともあれ、今更ではあるけど、今後自分が感じたイイとかイヤを少しずつ書き残していこうと思う。それで若さや欲望を取り戻せるとは思わないけど、自分の今後の日々の、なにかの足しになればと思う。